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10 September

召喚魔法と個人存在 ―『Fate/stay night』における存在・現象・人格概念 3

 こうして凛パートが3日目を迎えたところで唐突にこのルートは収束を強要され、あっけない幕切れを迎える。東坂凛の体験するストーリーの可能性の一つとしてあった、頓死によるゲームオーバーが具現化するのである。このエピソードを迎えた後になってようやく、士郎パートの本編1日目(1月31日)が開始されることとなる。本編における志郎の特異な生い立ちを語る“プロローグ”がここでさらに別個に導入されている事実は、このゲーム的仮構のメタレベルにおける自己言及的記述として看做し得る、興味深い要素でもあるだろう。“魔法”という世界解式と大きく関わる主題と平行してこの伝奇活劇ビジュアルノベルの重要主題を構築しているのが、主人公衛宮志郎の偏向した固定観念である“正義”と、一個の意識存在としての融通性を喪失させることとなった、彼の幼少の苛酷な体験だったのである。個人の精神内部の問題として倫理と仮構世界と現象世界の全てを含む心霊的関係性を捉えようと企図するこのエロゲーの仮構的立脚点が、改めて提示されるこのプロローグに示されている。志郎の独白からなるかなり長大なプロローグの前半部分だけを、以下に抜き出してみることにしよう。

 1日目 『Rebirth』
 ――気がつけば、焼け野原にいた。大きな火事が起きたのだろう。見慣れた
 町は一面の廃墟に変わっていて、映画で見る戦場跡のようだった。――それ
 も、長くは続かない。世が明けた頃、火の勢いは弱くなった。あれほど高か
 った炎の壁は低くなって、建物はほとんどが崩れ落ちた。……その中で、原
 型を留めているのが自分だけ、というのは不思議な気分だった。
 この周辺で、生きているのは自分だけ。よほど運が良かったのか、それとも
 運の良い場所に家が建っていたのか。どちらかは判らないけれど、ともかく、
 自分だけが生きていた。生きのびたからには生きなくちゃ、と思った。いつ
 までもココにいては危ないからと、あてもなく歩き出した。まわりに転がっ
 ている人たちのように、黒こげになるのがイヤだった訳じゃない。……きっ
 と、ああはなりたくない、という気持ちより。もっと強い気持ちで、心がく
 くられていたからだろう。
 それでも、希望なんて持たなかった。ここまで生きていたことが不思議だっ
 たのだから、このまま助かるなんて思えなかった。まず助からない。何をし
 たって、この赤い世界から出られまい。幼い子供がそう理解できるほど、そ
 れは、絶対的な地獄だったのだ。そうして倒れた。酸素がなかったのか、酸
 素を取り入れるだけの機能がすでに失われていたのか。とにかく倒れて、曇
 り始めた空を見つめていた。まわりには黒こげになって、ずいぶん縮んでし
 まった人たちの姿がある。暗い空は空をおおって、じき雨がふるのだと教え
 てくれた。……それならいい。雨がふれば火事も終わる。最後に、深く息を
 はいて、雨雲を見上げた。息もできないくせに、ただ、苦しいなあ、と。も
 うそんな言葉さえこぼせない人たちの代わりに、素直な気持ちを口にした。
 ――それが十年前の話だ。
 その後、俺は奇跡的に助けられた。体はそうして生き延びた。けれど他の部
 分は黒こげになって、みんな燃え尽きてしまったのだと思う。両親とか家と
 か、そのあたりが無くなってしまえば、小さな子供には何もない。だから体
 以外はゼロになった。要約すれば単純な話だと思う。つまり、体を生き延び
 らせた代償に。心の方が、死んだのだ。

 物心のつかない幼い頃に“体を生き延びらせた代償に、心の方が死んだ”という特異な体験を背負った主人公衛宮志郎の意識を支配している行動原理である正義が、救済と依存の関系を顛倒させたある種の脱臼した異常心理として語られるところに、魔法の原理と倫理の問題を中心主題とした「エロゲー界の倫理学」と呼ばれるこのビジュアルノベルの見逃すことが出来ない特質がある。
 志郎の独白によるプロローグはこの後さらに暫く続けられるのだが、彼の生い立ちを要約すれば、孤児となった志郎を引き取ってくれたのが魔術師衛宮切嗣であり、“魔術協会”の支配から離れた 異端的なこの魔術師に最小限の魔法の知識のみを教授された後に偶然に聖杯戦争に巻き込まれてしまうことになるのが、主人公衛宮士郎である。衛宮士郎パートの本編では暫くの間、英霊存在についての知識も聖杯戦争に関する備えも一切持たない志郎のごく平凡な日常生活の有様が物語られていくことになる。唯一志郎の日常生活が一般の人間達と異なるのは、彼なりに魔術師としての修行を日々行っている点である。この辺りは聖杯戦争という主題との密接な関係を持った東坂凛のプロローグが語っていた魔法の原理的特質に対して、むしろ裏面から間接的に魔法と人格特性の本質を掘り下げる本作の主題を物語ることになっている。
 志郎の魔法能力は、“強化”という、魔法の能力としてはいささか傍流的なものである。彼は破損した家庭用品の修理屋という特殊能力を備えているのだが、この特技の反映する魔術的側面は以下のように語られている。

 古びた電気ストーブに手を触れる。普通、いくらこの手の修理に慣れている
 からって、見た程度で故障箇所は判断しにくい。それが判るという事は、俺
 のやっている事は普通じゃないってことだ。視覚を閉じて、触覚でストーブ
 の中身を視る。――途端。頭の中に沸き上がってくる一つのイメージ。伝熱
 管がイカレてたら素人の手には負えない。その時は素人じゃない方法で“強化”
 しなくてはいけなかったが、これなら内部を視るだけで十分だ。それが切嗣
 に教わった、衛宮士郎の“魔術”である。

士郎の魔術能力は、事物の本質的組成を知覚の一つである“触覚”のように、直感的に感知することにある。意識と事物あるいは主観と対象物の間の断絶を認めない連続性の存在原理に基づく世界観は、しばしば魔法の主題の思想的な根幹的要素とされるものである。しかし志郎の特殊能力は、魔術師の世界の常識からすれば異端以下の無駄そのものでしかない。ただ受け入れ、理解すること以外にことさら能力を発揮する術を知らない魔術師が、この伝奇活劇ビジュアルノベルの主人公の正体なのである。

 そう。衛宮士郎に魔術の才能はまったく無かった。その代わりといってはな
 んだが、物の構造、さっきみたいに設計図を連想する事だけはバカみたいに
 巧いと思う。実際、設計図を連想して再現した時なんて、親父は目を丸くし
 て驚いた後、「なんて無駄な才能だ」なんて嘆いていたっけ。物事の核である
 中心を即座に読み取り、誰よりも速く変化させるのが魔術師たちの戦いだと
 言う。

 時に“メタモルフォシス”という言葉を用いてその要諦が語られるように、魔法の本質はしばしば現象世界の限界を超えた“変成”をこの世にもたらす超自然的な技術であるところに、その思想的意義性が主張されるものである。現象世界に束縛された仮象でしかない存在同一性を超克し、あらゆる存在物の裡に秘匿された様々の“同一性”次元の拡張を図ることによって世界の内奥の真実を捕捉することが、魔法の根本理念である。しかし士郎の場合は願望という確固とした意思を持つことがないので、変成の目標物を自身の積極的な意図として自覚することがまずできない。凛の語っていた「世界を支配することなど求めない」という願望否定の言葉とは裏腹に、凛は自分の暫定的な行動目的を正に自己本来のエゴの中に見出していたのだが、もとより「世界が自分を中心に存在する」ことを実感することが出来ないのが、主人公士郎の自我の基底から遊離した意識構造なのである。士郎の行動原理は、「自分に対して何かを求める他者のために働く」ことにしかない。“助力”という態を装った他者に対する全面的な依存という歪な形でしか生の根源的エネルギーを解放することができないのが、生きるものとしての根本理由を喪失した士郎の精神のあるがままの姿である。 しかし凛の魔術施行とは対照的ではあるが、志郎にも彼なりの流儀で行う確固とした魔術の修行の“日課”がある。この辺りの記述は、むしろ武道の鍛錬や宗教的な修行を思い起こさせるものとなっている。

 深夜零時前、衛宮士郎は日課になっている“魔術”を行わなくてはならない。
 「――――」結跏趺坐に姿勢をとり、呼吸を整える。頭の中はできるだけ
 白紙に。外界との接触はさけ、意識は全て内界に向ける。「――同調(トレース)、開始(オン)。」
 自己に暗示をかけるよう、言い慣れた呪文を呟く。否、それは本当に自己暗
 示にすぎない。魔術刻印とやらがなく、魔道の知識もない自分にとって、呪
 文は自分を変革させる為だけの物だ。……本来、人間の体に魔力を通す神経(ライン)は
 ない。それを擬似的に作り、一時的に変革させるからには、自身の肉体、神
 経全てを統括しうる集中力が必要になる。魔術は自己との戦いだ。例えば、
 この瞬間、背骨に焼けた鉄の棒を突き刺していく。その鉄の棒こそ、たった
 一本だけ用意できる自分の“魔術回路”だ。これを体の奥まで通し、他の神経
 と繋げられた時、ようやく自分は魔術使いとなる。それは比喩ではない。実
 際、衛宮士郎の背骨には、目に見えず手に触れられない“火箸に似たモノが、
 ズブズブと差し込まれている。

“神経”という語に“ライン”というルビが振られ、東坂凛のパートに登場していた“レイライン”との関連が暗示されている。17世紀から18世紀にかけて、イギリスではウィリアム・ハーヴェイ等の医学者達による解剖学研究の影響の許にトマス・ウィリス等の研究によって神経組織の存在が理解され、知覚と神経をあらわす述語を用いて世界の霊的機構を思念し記述することを目論む宇宙論的思弁がロマン主義を中心とする様々の文学者達の手によって展開された。ウィリアム・ブレイクの『4ゾア』や『エルサレム』等にも心霊学的な発想が解剖学的な用語を用いて語られている特徴的な箇所があったが、士郎の行う修練の場面にもそれに類した世界に伸長する個人意識とでも言うべき神経感覚を窺うことができる。宇宙と事物の全体像を空間的乖離を超えて“触覚的”に捕捉しようとするこれらの試みは、むしろ世界に漲る心霊(psyche)の根源性に関する直観的理解を深めようと欲する、伝統的心理学に属する知的関心であった。凛パートに登場した魔術原理と相補的な関係性を示して語られているのが、士郎の視点を介したこれらの魔術に関する記述なのである。

 いやまあ。実際、魔術刻印っていう物がなんなのか知らない俺から見れば、
 そんなのが有ろうが無かろうがこれっぽっちも関係ない話ではある。で、そ
 うなるとあとはもう出たトコ勝負。魔術師になりたいなら、俺自身が持って
 いる特質に応じた魔術を習うしかない。魔術とは、極端に言って魔力を放出
 する技術なのだという。魔力とは生命力と言い換えてもいい。魔力(それ)は世界に
 満ちている大源(マナ)と、生物の中で生成される小源(オド)に分かれる。大源、小源とい
 うからには、小より大のが優れているのは言うまでもない。人間一人が作る
 魔力である小源(オド)と、世界に満ちている魔力である大源(マナ)では力の度合いが段違
 いだ。どのような魔術であれ、大源(マナ)をもちいる魔術は個人で行う魔術をたや
 すく凌駕する。そういったワケで、優れた魔術師は世界から魔力をくみ上げ
 る術に長けている。それは濾過器のイメージに近い。
 魔術師は自身の体を変換回路にして、外界から魔力(マナ)を汲み上げて人間でも使
 えるモノ、にするのだ。この変換回路を、魔術師は魔術回路(マジックサーキット)と呼ぶ。これこ
 そが生まれつきの才能というヤツで、魔術回路の数は生まれた瞬間に決まっ
 ている。一般の人間に魔術回路はほとんどない。それは本来少ないモノなの
 だ。だから魔術師は何代も血を重ね、生まれてくる子孫たちを、より魔術に
 適した肉体にする。いきすぎた家系は品種改良じみた真似までして、生まれ
 てくる子供の魔術回路を増やすのだとか。

凛パートで語られていた“マナ”という全体性の宇宙観を暗示する発想を集約した語に対応して、その理念を個人存在に対して適用した“オド”というもう一つの概念が補足され、これらは“大源”と“小源”という漢字表記の各々に対して付されたルビとして記述されている。魔術とは魔術師自身の身体を回路として用いてそのマナをオドに変換する技であるとされている。その行為を行う動作の主体と、動作目的となる対象の間には存在論的な断絶は無い。科学の前提とは対照的に、行為者から隔絶された客観的対象物が存在し得ないのが魔術の原理であり、その特有の方法論である。世界に満ち満ちている生命力の奔流を、我が身そのものを“回路”の一部として用いて魔術師は“濾過”する。そのような全体性への没入的行為として、士郎は物品の属性を変性する“強化”の魔術に臨むのである。

 衛宮士郎は魔術師じゃない。こうやって体内で魔力を生成できて、それをモ
 ノに流す事だけしかできない魔術使いだ。だからその魔術もたった一つの事
 だけしかできない。それが――「――構成材質、解明。」物体の強化。対象と
 なるモノの構造を把握し、魔力を通す事で一時的に能力を補強する“強化”の
 魔術だけである。「――、基本骨子、変更。」目前にあるのは折れた鉄パイプ。
 これに魔力を通し、もっとも単純な硬度強化の魔術を成し得る。
 そもそも、自分以外のモノに自分の魔力を通す、という事は毒物を混入させ
 るに等しい。衛宮士郎の血は、鉄パイプにとって血ではないのと同じ事。異
 なる血を通せば強化どころか崩壊を早めるだけだろう。

 世界の本質に対する知的理解と術者自身の存在性向の実際の変化と外部の対象物に対する物理的操作が、同一線上の等価物として認められ得る存在論的メカニズムの許に語られているところに、魔法の本質的意義が含められていることが理解されるだろう。このような主体と客体の連続体としての宇宙論を暗示する語が“エーテル”であった。客観的物理存在の及ぼす局所的作用として主観から分離された“事象”という概念を否定することによって、魔法は“反科学”の思想的立脚点を誇示するものである。こうして東坂凛の視点で語られていた魔術の原理は、士郎パートでは反転した視界からそのシステム理論的特質を語られていくことになるのである。士郎の一般論的な魔法の知識が聖杯存在の影響の及ぼす特殊な魔術と接点を持つことになるのは、3日目(2月2日)を迎えてそうと知らぬうちにいつの間にか聖杯戦争の抗争に巻き込まれ、槍を手にして迫ってくる見知らぬ英霊であるランサーから身を守る術を模索し始めた場面においてである。

 「――同調(トレース)、開始(オン)。」自己を作り替える暗示の言葉とともに、長さ六十センチ
 程度のポスターに魔力を通す。あの槍をどうにかしようというモノに仕上げ
 るのだから、ポスター全てに魔力を通し、固定化させなければ武器としては
 使えないだろう。「――構成材質、解明。」意識を細く。皮膚ごしに、自らの
 血をポスターに染み込ませていくように、魔力という触覚を浸透させる。
 「――構成材質、補強。」こん、と底に当たる感触。ポスターの隅々まで魔力
 が行き渡り、溢れる直前、「――全行程(トレース)、完了(オフ)。」

 こうしてプロローグにあった凛ルートとの内実的合流を果たし、聖杯戦争に巻き込まれた主人公衛宮士郎の内と外が一通り語り終えられることになる。本編においては先例として数度あったとされる聖杯戦争とは例外的な展開が選択され、志郎はライバルである魔術師の東坂凛と協調路線を結ぶことになる。その結果、魔法と聖杯戦争の関連について全く無知であった志郎に対して凛が様々の知識を補完的に教授するという形で、さらに魔法と英霊存在の特質に関する情報が語られて行くことになるのである。以下は士郎と凛の間で交わされる、サーヴァントと英霊に関する会話である。

 「ゴーストライナー……?じゃあその、やっぱり幽霊って事か?」とうの昔
 に死んでいる人間の霊。死した後もこの世に姿を残す、卓越した能力者の残
 留思念。だが、それはおかしい。幽霊は体を持たない。霊が傷つけられるの
 は霊だけだ。故に、肉を持つ人間である俺が、霊に直接殺されるなんてあり
 得ない。
 「幽霊……似たようなものだけど、そんなモンと一緒にしたらセイバーに殺
 されるわよ。サーヴァントは受肉した過去の英雄、精霊に近い人間以上の存
 在なんだから」
 「――はあ?受肉した過去の英霊?」
 「そうよ。過去だろうが現代だろうが、とにかく死亡した伝説上の英雄を引
 っ張ってきてね、実体化させるのよ。ま、呼び出すまでがマスターの役割で、
 あとの実体化は聖杯がしてくれるんだけどね。魂をカタチにするなんてのは
 一介の魔術師には不可能だもの。ここは強力なアーティファクトの力におん
 ぶしてもらうってわけ。」
 「ちょっと待て。過去の英雄って、ええ……!?」セイバーを見る。なら彼
 女も英雄だった人間なのか。いや、そりゃ確かに、あんな格好をした人間は
 現代にはいないけど、それにしたって――「そんなの不可能だ。そんな魔術、
 聞いた事がない。」
 「当然よ、これは魔術じゃないもの。あくまで聖杯による現象と考えなさい。
 そうでなければ魂を再現して固定化するなんて出来る筈がない。」
 「……魂の再現って……じゃあその、サーヴァントは幽霊とは違うのか……」
 「違うわ。人間であれ動物であれ機械であれ、偉大な功績を残すと輪廻の枠
 から外されて、一段階上に昇華するって話、聞いたことない?英霊っていう
 のはそういう連中よ。ようするに崇め奉られて、擬似的な神様になったモノ
 たちなんでしょうね。降霊術とか口寄せとか、そういう一般的な“霊を扱う魔
 術”は英雄(かれら)の力の一部を借り受けて奇跡を起こすでしょ。けどこのサーヴァン
 トっていうのは英霊本体を直接連れてきて使い魔にする。だから基本的には
 霊体として側にいるけど、必要とあらば実体化させて戦わせられるってワケ。」

聖杯の作用の許に行われる召喚魔法は、過去から時空を超えて既存の人格を呼び寄せるような技術とは全く異なったものである。本来は人間存在としてあったものが、英雄的行為に対する人々の崇敬を得た結果、その人格特性に意味的な内実を蓄積することによって“擬似的な神様”へと昇華することができるのだという。これは、物質が保有するエネルギー値に対応して個体・液体・気体等の位相の変化を得る“相転移”を行う物理現象と類比的に、人格が崇敬という意味的エネルギーを得て霊的存在属性の位相跳躍を行い得ることを示している。物質粒子とその振動様態に限って科学の世界で受容されて来た跳躍的な位相変換の可能性を、意識体と想念の相関においても見出すことによって“意味的相転移”の存在を認め、その過程が“受肉する”とキリスト教神話の中にしばしば用いられて来た異界面の概念を適用して語られることになっているのである。さらにこの過程は“人格”を仮想する意識作用によって遂行されるものなので、その対象物は「人間であれ動物であれ機械であれ」区別を選ぶ必要はないのである。
 人として一個の主体的人格を形成するに足らない霊的欠損と、自身が陥った聖杯戦争という周囲の状況に対する全くの無知を抱え込んだ主人公である衛宮士郎は、本来はライバルである筈の凛との合体を果たして、愈々『Fate/stay night』の物語は本格的にそのストーリーの内実を拡充させて行くように見える。しかしこのビジュアルノベルの実態は、通常“伝奇活劇ロマン”という言葉で理解されているものとはいささか異なったものとなっている。以下は4日目(2月3日深夜)を迎えた本編士郎パートの続きである。凛とアーチャーの例に見られたのと同様に、英霊存在自身との知的会話を通してサーヴァントに関する魔術的知識が掘り起こされていくことになる、士郎と志郎のサーヴァントとなったセイバーとの会話である。セイバーは士郎が聖杯戦争におけるマスターとしては全く例外的に、サーヴァントに対する魔力供給を行うことが出来ていないことを告げるのである。

 「ええ、それなのですが、……おそらく、これはもう私たちでは解決できな
 い事です。私たちサーヴァントはマスターからの魔力提供によって体を維持
 する。だからこそサーヴァントはマスターを必要とするのですが、それが―
 ―」
 「……俺が半端なマスターだから、セイバーが体を維持するのに必要なだけ
 の魔力がないって事か?」
 「違います。たとえ少量でもマスターから魔力が流れてくるのなら問題はな
 いのです。ですが、シロウからはまったく魔力の提供がありません。本来繋
 がっている筈の霊脈が断線しているのです。」

凛とアーチャーの会話を通して語られていた“レイライン”というマスターとサーヴァントの間の心霊的関系を構築する回路あるいは力が、マスターとしての士郎には全く欠損していることを士郎はサーヴァントのセイバーから宣告されるのである。それにもかかわらず、召喚者としての自覚を全く持つことの無かった士郎の許に何故か彼のサーヴァントとして現界したのが、セイバーとして実体化した英霊であった。その理由を語るべき彼女の正体を示すこの英霊の“真名”は、まだここでは明かされていない。
 ストーリーが聖杯戦争を中心にした魔術師達の抗争を軸に進行を始めたかのように見えても、むしろこの伝奇活劇ビジュアルノベルが執拗に描くのは主人公衛宮士郎の人間存在としての精神的欠陥を暴く瑣末なエピソードである。マスターからの魔力供給の無いままに圧倒的な力量を持つバーサーカーとの戦いを強いられ、すんでのところで両断されかねなかったセイバーを、士郎は聖杯戦争を戦う魔術師としての基本戦略を無視して身を挺して守るという暴挙に出る。それは共闘者である東坂凛の聖杯戦争参加者としての判断に従えば、全くの無意味行為以外の何物でもない。しかしこの愚挙に対する士郎の内面の論理は、以下のようなものである。

 ……恐らく。あの瞬間、自分の中にあった“殺される”という恐怖より、セイ
 バーを“救えない”という恐怖の方が、遥かに強かっただけの話。

生命を規定する筈の原初的生存本能に値するものを、士郎は保有していない。彼の行動原理を導く筈の衝動は、自身の生命の維持には反する全く別の次元から及ぼされる“恐怖”にある。自己犠牲に及ぶことさえもない士郎の行動はセイバーの窮地を救うものでは決してなかったが、思わぬ展開に従ってセイバーと士郎の両者ともこの危機的状況を脱することができる。しかし、自分のマスターとなった者の精神的状況を冷徹に判断する彼のサーヴァントであるセイバーの指摘も、凛のそれと全く変わらぬ視点に基づいた以下のようなものである。

 「そうですね。それが正常な人間です。自らの命を無視して他人を助けよう
 とする人間などいない。それは英雄と言われた者たちでさえも例外ではない
 でしょう。ですから――そんな人間がいるとしたら、その人間の内面はどこ
 か欠落しています。その欠落を抱えたまま進んでは、待っているのは悲劇だ
 けです。」

主人公士郎の抱く無私の博愛主義も純粋極まりない倫理観も、このゲーム作品の主題的見通し図の中では全面的意義性を保障する概念軸に接することは決してないのである。 サーヴァントに対する“魔力供給”というマスターとしての不可欠の機能を発揮することが出来ないばかりか、士郎は逆にサーヴァントであるセイバーの霊的能力である治癒効果によって自身の肉体の損傷を癒されることになる。本来なら致命傷である筈の甚大な外傷を敵サーヴァントに負わされた士郎が理不尽な回復を示した理由を、東坂凛は以下のように推測して語る。4日目、2月3日の朝を迎えた士郎と凛の会話である。

 「そうなると原因はサーヴァントね。貴方のサーヴァントはよっぽど強力な
 のか、それとも召還の時に何か手違いが生じたのか。……ま、両方だと思う
 けど、何らかのラインが繋がったんでしょうね。」
 「ライン?ラインって、使い魔と魔術師を結ぶ因果線の事?」
 「あら、ちゃんと使い魔の知識はあるじゃない。なら話は早いわ。ようする
 に衛宮くんとセイバーの関係は、普通の主人と使い魔の関係じゃないってコ
 ト。見たところセイバーには自然治癒の力もあるみたいだから、それが貴方
 に流れてるんじゃないかな。普通は魔術師の能力が使い魔に付与されるんだ
 けど、貴方の場合は使い魔の特殊能力が主人を助けてるってワケ。」

あらゆる細目において聖杯戦争における例外事項を現出することになっていた衛宮士郎とセイバーの間の関系は、マスターとサーヴァントの間に存在する原初的人格概念の裡に秘められた、未知なる“同一性”あるいは“相当性”の存在を指し示すこととなるのである。エロゲー『Fate/stay night』の仮構作品としての最も興味深い主題は、そのような意味における人格同一性解釈の拡張論議の裡にある。さらに凛との会話を通して士郎は、セイバー達サーヴァント存在とマスターである魔術師達の関系性の深奥と英霊存在の根本属性を学ぶことになる。

 「聖杯を手に入れる為にマスターがサーヴァントを呼び出す、じゃない。聖
 杯が手に入るからサーヴァントはマスターの呼び出しに応じるのよ。」
 「マスター同士で和解して、お互いに聖杯を諦めれば話は済むと思っていた
 けれど、サーヴァントが聖杯を求めて召還に応じて現れたモノで、けして聖
 杯を諦めないのならば、それじゃ結局、サーヴァント同士の戦いは避けられ
 ない。……なら。自分を守るために戦い抜いてくれたあの少女も、聖杯を巡
 って争い、殺し、殺される立場だというのか。……なんてことだ。英霊だか
 なんだか知らないけど、セイバーは人間だ。昨日だってあんなに血を流して
 た。」
 「あ、その点は安心して。サーヴァントに生死はないから。サーヴァントは
 絶命しても本来の場所に帰るだけだもの。英霊っていうのはもう死んでも死
 なない現象だからね。戦いに敗れて殺されるのは、当事者であるマスターだ
 けよ。」

現象世界での生死の断絶を超えた概念的存在である英霊は、闘争における敗北が自らの死を意味する魔術師達とは全く異なり、サーヴァントとしての“クラス”を解放されるだけである。本来英霊とされるもの達は、物質と生命の世界とは全く異なる別個の次元に帰属するものだからである。凛は英霊存在と人間存在の間にあるこの次元の異なりについて、“自然霊”と“人間霊”という言葉を当て嵌めて語る。

 「そうよ。けれどサーヴァント達は私たちみたいに自然から魔力(マナ)を提供され
 ている訳じゃない。基本的に、彼らは自分の中だけの魔力で活動する。それ
 を補助するのがわたしたちマスターで、サーヴァントは自分の魔力プラス、
 主であるマスターの魔力分しか生前の力を発揮できないの。けど、それだと
 貴方みたいに半人前のマスターじゃ優れたマスターには敵わないって事にな
 るでしょ?その抜け道っていうか、当たり前って言えば当たり前の方法なん
 だけれど、サーヴァントは他から魔力を補充できる。サーヴァントは霊体だ
 から。同じモノを食べてしまえば栄養はとれるってこと。」
 「簡単でしょ。自然霊は自然そのものから力を汲み取る。なら人間霊である
 サーヴァントは、一体何から力を汲み取ると思う?まず、呼び出される英霊
 は七人だけ。その七人も聖杯が予め作っておいた役割(クラス)になる事で召還が可能
 となる。英霊そのものをひっぱってくるより、その英霊に近い役割を作って
 おいて、そこに本体を呼び出すっていうやり方ね。口寄せとか降霊術は、呼
 び出した霊を術者の体に入れて、なんらかの助言をさせるでしょ?それと同
 じ。時代の違う霊を呼び出すには、予め筐(はこ)を用意しておいた方がいいのよ。」
 「役割(クラス)――ああ、それでセイバーはセイバーなのか!」
 「そういう事。英霊たちは正体を隠すものだって言ったでしょ。だから本名
 は絶対に口にしない。自然、彼らを現す名称は呼び出されたクラス名になる。」
 「それもあるけど、彼らの能力を支えるのは知名度よ。生前何をしたか、ど
 んな武器を持っていたか、ってのは不変のものだけど、彼らの基本能力はそ
 の時代でどのくらい有名なのかで変わってくるわ。英霊は神さまみたいなモ
 ノだから、人間に崇められれば崇められるほど強さが増すの。存在が濃くな
 る、とでも言うのかしらね。信仰を失った神霊が精霊に落ちるのと一緒で、
 人々に忘れ去られた英雄にはそう大きな力はない。」

人々の崇敬と信仰がその存在を“濃くする”と凛が語るところに、英霊の概念的な存在特質が端的に窺える。かつては神として敬われていたものが人々の意識から遠のくことによって精霊という姿に堕落し、あるいは悪魔として反転的なイメージに変身を遂げてしまうこともあるのだろう。人間存在の“影”として措定される汎神論的位相として神や聖霊を理解する心霊学的機構の裡に英霊存在も認められるものだろう。人の意識空間の中に醸成される空虚な観念的イメージであると共に、観念論的実在としての“原存在”の意義性をも実は同様に担っているのが、この伝奇活劇ビジュアルノベルが語る英霊達の素性なのである。そこには現代の科学思想が意図的に封印してきた実念論的存在・現象解釈の復権が確かに窺われる。その顕著な実例となるのがサーヴァント達の能力と彼等の携える武器である。英霊存在の振るうとされる彼等の武器の桁外れの強大さは、そのまま神話的人物像を語り伝える人々の願望と理想を具現化したものなのである。凛はさらに続けて語る。

 「彼らにはそれぞれトレードマークとなった武器がある。それが奇跡を願う
 人々の想いの結晶、貴い幻想とされる最上級の武装なワケ。」

凛の挙げる英霊存在と概念的に一体化した武具の典型的な例となると思われるのが、アーサー王の保持していた伝説の剣“エクスカリバー”である。幼少のアーサーに国王となるべき資格を与え、幾多の戦いと勝利を通じてこの人物のアイデンティティを完成させた伝説の剣の名とその謂れには諸説があるが、この伝奇活劇ビジュアルノベルでは「予め約束された勝利の剣」としてその名を判読している。この剣の名は、逆賊モードレッドとの戦いで負った傷を妖精の国で癒した後、いつか再びブリテンの国に再来して王国の再建を果たしてくれることを待ち望まれる「帰還すべき王」として後世の人々の想念を支配した、復活の約束に縛られたアーサー王の人格同一性概念と直裁に繋がるものなのである。
 英霊の本質と聖杯戦争の実態を理解した衛宮士郎は、改めてこの苛烈な闘争に参入することの意義を彼なりに見出す。しかしそれは、むしろ“伝奇活劇ロマン”という物語世界の肌理に抗う、顛倒した目的意識なのである。士郎は、仮構世界と現実世界の双方の意味的内実を支える筈の、ゲーム内設定条件の無化というある種の脱システム的解法を試みようと決心するのである。

 何故だろう。聖杯には、嫌悪感しか湧かない。望みを叶えるという杯。それ
 がどんなモノかは知らないが、サーヴァントなんていうモノを呼び出せる程
 の聖遺物だ。どんな望みも叶える、とまではいかないにしても、魔術師とし
 て手に入れる価値は十分すぎる程あるだろう。それでも――俺はそんなモノ
 に興味はない。実感が湧かず半信半疑という事もあるのだが、結局のところ、
 そんな近道はなんか卑怯だと思うのだ。それに、選定方法が戦いだっていう
 のも質が悪い。……だが、これは椅子取りゲームだ。どのような思惑だろう
 と、参加したからには相手を押し退けないと生き残れない。その、押し退け
 る方法によっては、無関係な人々にまで危害を加える事になる。だから、
 ――喜べ衛宮士郎。俺の戦う理由は聖杯戦争に勝ち残る為じゃなくて、――
 君の望みは、ようやく敵う。どんな手を使っても勝ち残ろうとするヤツを、
 力づくでも止める事。

物語が物語としての完結した意味を構築せねばならないという制約を負っていることを物語あるいは物語の中の登場人物自身が明確に意識しているという構造は、20世紀ファンタシー文学におけるメタフィクション戦略の一つの典型になっていたが、21世紀におけるゲーム的仮構世界はその特有のメタフィクションの戦略として、時に物語の意味性を基底から破綻させるメタ物語的構図を導入することとなる。類型的な“物語性”を破却してそこに主張されるのは、記述システムとしての仮構が保持する純然たる思弁性なのである。純思弁的伝奇活劇ビジュアルノベルである『Fate/stay night』は、概念存在たる英霊と概念人格たるサーヴァントに加えて、さらに“概念魔法”という概念を提示することによって、仮構世界の観念空間の全面的拡張を図ることとなる。彼等の前に現れたバーサーカーの、いかなる攻撃をも無化する程の圧倒的なサーヴァントとしての能力を推し量って、セイバーは士郎に語るのである。

 「……これは憶測ですが、バーサーカーの宝具は“鎧”です。それも単純な鎧
 ではなく、概念武装と呼ばれる魔術理論に近い。おそらく――バーサーカー
 には、一定の水準に達していない攻撃を全て無効化する能力がある。私の剣、
 凛の魔術が通じなかったのはその為でしょう。」

 セイバーの語る“概念武装”は、ゲーム世界を枠外から瞥見する視点に従えばゲーム内仮構を進行するための各種設定条件の一つとしてプログラムされた、規定の相関関係と設定値に還元される情報概念に他ならない。ゲーム的仮構の中に導入された魔法と超自然的存在の示す特殊能力について、このビジュアルノベルは際立って自省的な視点を有しているのである。概念情報の集積として物語化されたゲーム作品は一つの独立した可能世界であると共に、“現実世界”という可能世界の中で体験される一個のゲーム世界でもある。ゲームをプレイするプレイヤー/鑑賞者は、概念を抽出して一つの可能世界の世界観を構築する意識の主体として、事象性に拘束されない次元跳躍的な複眼的視点をゲーム的メタフィクションの機構として提供されているのである。セイバーはさらに続けてバーサーカーの概念魔法について語る。

 「はい。宝具と通常攻撃では比べるべくもない。宝具のCランクは、通常攻
 撃に変換すればA、ないしA+に該当します。……ですが、バーサーカーを
 守る“理(ことわり)”は物理的な法則外のものです。アレは、たとえ世界を滅ぼせる宝
 具であれ、それがAランクに届いていないものならば無力化する、という概
 念です。」
 「バーサーカー……ヘラクレスは神性適正を持つ英霊だ。神の血を受けた英
 霊には、それと同等の神秘でなければ干渉できない。」

個人人格と心霊的宇宙観とゲーム理論的情報概念を“概念としての宇宙”という場の中で実念論的仮構として再統合することを目論む思弁が、この伝奇活劇ビジュアルノベルの持つ一つの相貌なのであった。そこには神と魔法と想念が宇宙定数を支配する欠かせない要因として認められているのである。

15:13:12 | antifantasy2 | | TrackBacks
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