Complete text -- "講演会テキスト 続き"

15 February

講演会テキスト 続き

レッド・ブルー存在の対蹠的位相

With low, sad cry, she whirled and ran back the way she had come: back through the tattered fields and over the plain, toward King Haggard’s castle, dark and hunched as ever. And the Red Bull went after her, following her fear.
P. 110

低い、悲しげな叫び声をあげて、ユニコーンは身体の向きを変え、今
来た道を引き返した。引き裂かれた畑をまた戻り、草原を横切り、元
のまま黒く背を丸めたままのハガード王の城の方へと行くのだった。
そしてレッド・ブルは彼女の怯える心の後を付いて行くのだった。

追うものが追われるものに対してその追跡という行為により恐怖感を与える、という基本的な主客の関係の許に成立する筈の因果関係が逆転し、あまりにも無知なるが故に本来の目的性も独自の意志をも持つことがあり得ないこの怪物は、ユニコーンの怯える心によって生成し、その恐怖の後に付き従うことによって始めて、個別の行動とそしてその存在をも具現化するのであるかもしれない。そしてレッド・ブルの存在属性を照射すると思われる同様の反転的因果関係を示す記述は、追う牡牛と追われるユニコーンの後をあたふたと着いて行く、シュメンドリックとモリーの姿を語った以下の描写にも再び繰り返されているのである。

Molly and the magician scrambled over great tree trunks not only smashed but trodden halfway into the ground, and dropped to hands and knees to crawl around crevasses they could not fathom in the dark. No hoofs could have made these, Molly thought dazedly; the earth had torn itself shrinking from the burden of the Bull.
P. 111

モリーとシュメンドリックは巨大な木々の残骸の上を乗り越えて進ん で行った。それらは打ち砕かれているだけでなく、踏み付けられて地 面の中に半分埋まり込んでいるのだった。四つん這いになって、暗闇の中では深さも知れない地の裂け目を避けて進まなければならなかった。モリーは頭をくらくらさせながら思った。「レッド・ブルの蹄がこんな裂け目を穿った筈はない。牡牛の重さを嫌って、地面の方が自分から裂けてしまったのだ。」

 レッド・ブルの途轍も無い巨大さが残した破壊と蹂躙の痕跡として、倒された木々や裂けた地面が確かに残されてはいる。しかしそのあまりの凄まじさに、実際にこのような出来事が起こったとは俄に信じ難いばかりではなく、むしろ破壊行為の原因となる牡牛自身の実体性そのものに、却って疑念が持たれてしまうのである。事象の生成に対して、動作を行った主体と変化をもたらされた客体という本来あるべき関係性の見事な喪失の有り様が、ここに改めて明示されているのである。レッド・ブルとはむしろポジティブな存在性を持つことのない、他の何者かのネガティブな自壊、あるいは喪失、もしくは逡巡さもなければ保持する性向あるいは属性の一部分の放棄が形象化したものであると呼んだ方が、より適切なものであるのかもしれないのだ。そう言えば最初にあの蝶がレッド・ブルの名を口にした際も、この牡牛は「ユニコーンを追い立てて行った」とは語られてはいなかった。「レッド・ブルは、走り去るユニコーン達の後を走って行った」と述べられていただけなのであった。
 現代の世界観を支配する西洋論理的因果関係の理解に従えば、先ず現象を起こすべき本体が予め存在し、一方がもう一方の存在物に対して何らかの動作を働きかけるものとされる。そこには能動と受動の関係が、時間軸の単一方向的支配の許に局所的作用として厳然と存在せねばならないのである。しかしこれに対して、例えば古代世界あるいは伝統的な東洋思想における事象の生成とは、絶えず遷ろい変化し続ける全体のある意識の主体に対して仮に示す、一つの相対的な局相として理解されるに過ぎないものであった。行為を行うものとその働きを被るものとを峻厳に分別する感覚は、統括的な全体性を前提とする思想の裡には、もともと存在しなかったのである。
 ユニコーンを狩るレッド・ブルと、レッド・ブルによって狩られるユニコーンは、それぞれ個別の存在性向を保持する実体であるのではなく、仮定された一つの存在あるいは現象の示す、対極的に分離した二つの位相でもあるかのごとくである。

対立物の示す同等性

ユニコーンによって檻から解き放たれた直後、平然と恩人であるユニコーンを殺害しようと襲いかかるハーピーと、彼女の攻撃をこれまたいかなる躊躇も感じることなく当然のごとく受けて立つユニコーンの両者の姿は、

“So they circled one another like a double star.”
p. 49

そうしてユニコーンとハーピーは、連星のように向かい合って回った。

という印象的な言葉で語られていたのであった。
 また、作者ビーグル自身によるシナリオに基づいて映画化された1982年公開のアニメーション版The Last Unicornでは、原作には無かったハーピーの姿を認めた際のユニコーンの口にした科白である、

“We are the two sides of the same magic.”
私達は一つの魔法の二つの側面なのです。

という言葉が、見事に彼等の分極的生成物としての密接な対称的関係性を物語っていたのであった。さらにまた上のユニコーンの科白に対して、後程ハーピーがユニコーンに発した言葉

“Set me free. We are sisters, you and I.”

が、あたかも巴の図像のような精密な対応を完成していたのである。

17:40:34 | antifantasy2 | | TrackBacks
Comments

HANNA wrote:

 初読のときから、レッド・ブルはユニコーンと同じぐらい強烈でした。

 ユニコーンが主人公として存在感があり、登場当初から細かに描写されて、シュメンドリックたちや読者の愛・憧れを受けていくのと対照的に、

 レッド・ブルは名のみ明かされ、なかなか登場せず、城の場面でも気配のみで詳細は不明なのに、いや、不明だからこそよけいに強烈な印象(恐怖)を残す・・・

 その対比の真相が、この論文を拝読して大変よく分かりました
02/19/18 00:33:17

mackuro wrote:

コメントありがとうございます。確かにレッドブルについては伝聞でばかり語られて、実体が非常に曖昧な記述で語られていました。この過程に注目して「最後のユニコーン」を別な角度から語る視点を見つけることができそうですね。「論文」の枠にとらわれない寄稿文集の編集を企画しているところですので、ご協力頂けると有り難いです。詳細については後ほどツィッターでご案内する予定です。
02/19/18 12:46:37
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