Archive for 04 September 2006

04 September

英文学科公開講座主題3 「ピーター・パン」

9月16日に開催の英文学科公開講座の主題解説を致します。

ファンタシーと仮構(フィクション)の位相
ー“ピーター・パン”を題材にした3つの映画とメタフィクション

3 “ピーター・パン”
 『ピーター・パン』(2004年、P・J・ホーガン監督)では、一見したところお馴染みのピーター・パンのお話が現実離れしたおとぎ話として、そのまま映画世界の中でなぞられているように見える。不注意な観客の寄稿した記事によれば、「原作に忠実に映画化した作品」などという評価もなされているようである。しかし注意深く原作小説あるいは劇とこの映像表現によって構築された仮構世界の内実を再検討してみると、この“ピーター・パン”と名付けられた映画は、むしろ原作との微妙な偏差を活用してその独特の存在意義を主張する、はなはだ複雑な機構を秘めた仮構作品であることが分かるのである。原作をあるがままに模したものであるのなら、むしろ原作の詳細部分に対する参照や対比は作品鑑賞の興趣を損ねることになる筈である。しかしこの『ピーター・パン』という映画は、さりげなく換骨奪胎された原作とのはなはだ微妙な差異を再確認する作業によって、その作品としての味わいを改めて増幅することができるという、新趣向の作物となっている。
 実はこの映画の本当の主人公はピーターではなく、ウェンディなのだ。ピーターとの交流やフック船長とのやりとりも、少女ウェンディの視点を中心に据えた別種の仮構世界において始めて意味をなす、独特のものとして描かれている。冒頭にあるフック船長を装いながら弟達と海賊ごっこをして戯れるウェンディの姿は、原作には見られなかったものである。この場面に明らかなように、この映画のウェンディは、原作のピーターの保持していた活動的で冒険好きの性向のかなりの部分を肩代わりしているだけでなく、それに伴って原作にあった他者の台詞の多くをも、彼女のものとして与えられているのである。優れた台詞回しや印象的な情景等の原作にあった興味深い詳細部分の魅力をそのまま活用しながら、その台詞の語り手や前後関係等を大胆に改変して再構成したこの映画は、その入念な趣向の全体像を正しく理解するためには、原作に対する深い理解を要求するという点で、実はかなり作り手の身勝手な遊戯行為の上に成り立つ作品であるともいえる。時に高踏的な仮構作品は、仮構として成り立つその枠組みと仮構性の位相に対する批評家的論議そのものを、鑑賞の核心として提示することもある。つまり映画『ピーター・パン』は、仮構作品に対する分析的な批評行為を鑑賞の条件として要求するという独自の要素を備えた、特有のメタフィクションとなっているのである。

23:59:59 | antifantasy2 | No comments | TrackBacks