Archive for January 2011

25 January

映画『闇のバイブル』研究 8

 ここからいきなり、これまでの秘匿された策略と狡猾な陰謀の存在を暗示する不気味な展開とは打って変わって、少女たちの清らかな声による祝祭的なコーラスが響き渡る。画面には何事も無かったように、幸せそうに口付けを交わすヴァレリエとオルリークの姿が映し出されている。


 唐突のフィナーレを迎えた映画は、形式通りのエンディングの様相を示し、少女たちの清澄な歌声による賛歌と共に、それぞれの人たちがそれぞれに愛を交わしあう様を映し出す。本編には描かれていなかった他の選択肢のもたらす種々の可能性の具現する様相が、改めて暗示されているようでもある。オルリークの御す馬車には、お祖母様とお母様とお父様とヴァレリエの4人が揃って乗り込んでいる。ここでは物語は、失われていた家族の再会と和解という幸せな主題に収束している。
 ミサで同席していた少女たちと町の広場でヴァレリエを火刑に処した男たちも、仲良く木の上で勢ぞろいしている。さらには、情愛深げに口付けを交わし合う少女たちの姿もある。


 怪物の姿のリヒャルドとエルサが親密に抱きあう姿もある。少女たちと楽隊も揃って穏やかな様子で水辺にくつろいでいる。


 花売り娘とヴァレリエの朗らかに並び立つ姿も、親しげな様子のお父様とヘドヴィカの姿さえもある。


リヒャルドの持っていた扇子を掲げたお父様と、従姉妹のエルサの持っていた首飾りを掲げたお祖母様の揃い立つ姿もある。この映画に登場したキャラクターたちの全ての存在性向と関係性の混淆と遷移が、網羅的に示されているのである。しかし伝道師のグラツィアンだけは、どうしてか教会にあった籠の中に閉じ込められている。


 そこで幼子と子羊を囲む少女たちの姿が映し出される。ここで終局を迎えると共に、全てを覆い尽くしたと思われた渾沌と猥雑は、この仮構世界の要求する支配的な祝祭のモメントの許に、一挙に聖性の様相を賦与されることになる。


オルリークと花売り娘が仲良く立ち並ぶ姿もある。

人々は集って森の中に置かれたベッドを囲んでいて、ヴァレリエはその中央でベッドの中に静かに身を休める。



 こうして聖歌隊の敬虔な頌歌を思わせる少女たちのコーラスと共に、ヴァレリエの奔放な夢の世界はようやく終焉を迎えることになるのである。
 ナレーションを用いて一意的な概念を選択してしまう言葉でストーリーを語ってしまったならば、そのシーンの内実は意味的に決定され、現象世界的に収束した物語像を伝えるものとなる。しかしこの映画では、シーンの一つ一つが概念を棄却した即物的な映像のみを効果的に用いて提示されているため、エピソードの各々が深い曖昧性を担わされており、ほとんどの状況において両義的な解釈を行う余地が残されたものとなっている。不吉な忌まわしい出来事が起きようとしているのかあるいは心地よい希望の実現がもたらされつつあるのか、主人公は被害者として虐げられているのかあるいはむしろ加害者として狡猾に振る舞っているのか、その答えは決して明らかにはされてはいないのである。
 ほとんど全ての重要なシーンにおいて、ヴァレリエを取り巻く登場人物たちには、表面に暗示されるものとは裏返しの筋の進行を示唆するような怪しげな仕草が用いられたり、疑わしい視線のやり取りが行われたりすることとなっているのである。



 映像として観客が目撃したものは主人公ヴァレリエの願望なのか畏怖なのか、あるいはそれ以外の他の何ものかでもあり得るのか、客観的な判断を行うための基幹的情報は、敢えて最後まで伏せられたままである。その曖昧性は、殊に終末とエンディングのシーンにおいて爆発的に増幅されている。エンディングにおいては、本編では描かれることの無かった可能性の暗示する様々の帰結さえもが、それぞれ一瞬の映像の断片を用いて脈絡もなく網羅的に提示されているのである。
 説明台詞に頼ることなく、さりげない些細な仕草の中に両様に解釈することのできる含みを持たせた演技は、かなりの集中力を維持して観続けることを要求するものである。この事実に見られるように、実は多くの場合言葉よりもむしろ映像の方が、その読解においてより高度の知性を要求するものなのである。そのような観点からこの映画に用いられている演技と演出上の工夫を再点検してみる必要があるに違いない。現象世界的リアリズムとは全く異なる構造原理に基づいた映像芸術作品 Valerie and Her Week of Wonders においては、生成する事象の位相を決定すべき観測者の視点を構築する位置情報が周到に撹乱され、さらに意識の裡における空間認識と肉体感覚の双方が個体あるいは現象として発現する以前の未分化の状態に還元された結果、経験された出来事の内実を記述すべき因果関係性の概念そのものもまた解体して、これらを反映すべき映像が相反する場面のそれぞれを平行に分岐させた多義的な描像として時間軸上に再配列されて、点描的に画面上に現出することになっていたのであった。

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24 January

映画『闇のバイブル』研究 7

 ヴァレリエはお祖母様の言いつけに従い、芸人達のパレードを先導してきたオルリークに窓から籠を降ろして花を渡す。するとオルリークは今度は、代わりに一通の手紙を籠に入れて戻してくれるのである。ヴァレリエは再び温室で、あぶり出しを用いてオルリークから受け取った手紙の内緒の文面を読み取る。


 そこで唐突に挿入されるのが、鶏を襲う鼬のシーンである。若者が銃で鼬に狙いをつけているが、ヴァレリエは鼬を見逃してくれるように懇願している。


そこに一見脈絡無く映し出される、野原の中を逃げて行く黒衣の者の姿がある。ヴァレリエの絶叫と共に、黒衣の者は草原の中に倒れ臥す。前回のターンでヴァレリエが演じていた草原の逃走のシーンは、今回はリヒャルドに該当する人物が受け持つことになっているようでもある。


次のシーンでは、何故かヴァレリエは撃ち殺された鼬の死骸からイヤリングを外して手に取ろうとしている。


そこに館の下女が、お祖母様が病に倒れたことを知らせに来る。ヴァレリエが館に戻ると、お祖母様は自室で床に臥している。するとお祖母様に心配そうに声をかけながら、ヴァレリエは狡猾にその耳からイヤリングを外すのである。お祖母様の部屋の背後の壁には、お父様の肖像画がかけられている。お祖母様は手鏡に自分の顔を映して耳飾りが失われたことに気付くが、手に取った手鏡の裏には、温室にあった蜜蜂の巣の木像にあったのと同様の浮き彫りが施されているのが何やら暗示的である。


その時、館の中庭に御者の乗っていない二頭立ての馬車が乗り入れてくる。この事実を告げられると、お婆様はこれまでヴァレリエに隠されていた過去の秘密と、不思議な予言を暴く告白をしてこと切れる。


お祖母様の死を待ち受けていたかのように館に乗り入れてきた馬車には、壁に掛かっていた肖像画にあった通りのお母様とお父様の姿がある。


 ヴァレリエは遂に館に戻ってきたお母様とお父様を迎え入れる。しかしヴァレリエを抱き留めたお母様は、何故か曰くあり気に視線を横に移しているのである。壁にかけられた鼬の死骸の傍らに、オルリークの姿も見えるが、オルリークは指を口に当てて、ヴァレリエに何かを告げようとしているようにも思われる。


 ヴァレリエを抱き留めたお父様も、お母様の場合と同様に曰くあり気な怪しい視線を他所に向けているのである。そのお父様の視線の先には何故か、壁にかけられた鼬の死骸がある。


お母様とお父様は、ヴァレリエの目を盗んでやはり怪しい目配せを交わしあっているのであった。


ヴァレリエは、両親の示す不審な動作に何も気付くことなく、耳飾りをお母様の耳にかけてあげる。


 そこに喪服に身を包んだお祖母様が、オルリークに支えられて館から出てくる。先ほどベッドで事切れた筈のお祖母様が、何事も無かったように館から姿を現すのである。お祖母様は、ヴァレリエの両親を迎え入れ、お母様と口付けを交わしながら、ヴァレリエがかけてあげたお母様の耳元の耳飾りに目を留める。それからお祖母様は一瞬お母様の首を絞めようとするのだが、何故か突然動作を思い止まるのである。従姉のエルサがヴァレリエに対して行った攻撃の試みとその放棄の動作が、形を変えてここで反復されているのである。それと同時に、何故か壁にかけられた鼬の死骸に耳飾りが移動している。

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23 January

映画『闇のバイブル』研究 6

 ヴァレリエの姿は、再び救貧院の扉の前に戻っている。耳飾りの力を用いて空間を移動したのか、あるいは時間を遡ってこの選択肢のイヴェントをやり直すことにしたのかは定かではない。ヴァレリエは再び口に含んでいた耳飾りの真珠を手の平に吐き出す。


 救貧院の中は、今度は売春宿か阿片窟のような有り様になっている。そこには何故か、火刑場にいた花売り娘や楽隊もいる。この映像作品の場面を形成する登場人物は常に一定であり、彼等の演じる役割が様々に様態の変化を選択する構図は、この映画の創作戦略上の基軸パターンをなすものである。


救貧院の内部では、若者と女を巡って諍いを起こす怪物のままの姿のリヒャルドがいる。リヒャルドに嘲笑されて激怒した若者は、ナイフを抜いてリヒャルドの背後から近づく。恋人同士を演じている男と女も、やはり常に同一の人物たちである。


ヴァレリエはリヒャルドのワインのカップにイヤリングの真珠を投げ入れる。ヴァレリエがリヒャルドを救おうとしているのか、それとも彼を倒そうとしているのかは、やはり定かではない。しかしワインを飲み干した途端、リヒャルドの様子に変化が起きる。リヒャルドの姿は苦しんでいるようにも、あるいは哄笑しているようにも見える。人々の仕草は、ほとんどいつも両様の解釈を可能にするような曖昧性に満ちたものになっているのである。それでも終に、リヒャルドは床に倒れ伏す。姿の見えなくなったリヒャルドの衣の下から、一匹の鼬が姿を現わす。周囲を取り巻く人々は、恐ろしい怪物リヒャルドの消滅を喜んでいるようである。


 阿片窟の窓の外を覗いたヴァレリエは、伝道師の一隊が行進してくるのを目にする。路上では、いつもの花売り娘が以前の時と同じ様に伝道師達に花を捧げているのである。今度は何故か御簾の中から外に花を投げ捨てる者がいるが、花売り娘は御簾に付き従って、路上に落ちた花を一つ一つ拾い上げている。この映画の前半にあった動作のモメントが逆行し、仮構世界を支配する物理的な根本原理の可逆現象が選択されつつあるようにも見える場面である。


 物語の物理的・意味論的構造性に対する際立って自省的な感覚は、この映像作品の特徴的な要素を形成することになる。ループ構造のターンの一つを完結させたかのごとく、仮構世界のシーンは再びヴァレリエの館に戻る。そこには以前と同様に、冒頭のシーンにあった温室の男女の木像にあつらえられた蜜蜂の巣箱の映像が映し出されている。その後には殊勝に祈りを捧げているヴァレリエの姿があらわされる。


温室の中には、椅子に座って安らかに眠入っているオルリークの姿がある。


 ヴァレリエは一人自室に戻り、ベッドの中で静かに休む。選び取った夢と妄想の一つのターンに、自ら終結を与えることを選んだようでもある。


 しかし教会ではやはりまだ、ミサの時に庭の木の上で怪しい快楽に耽っていた若い娘が、変わることなくいかがわしい素振りを続けているのである。類型的な夢物語との明らかな相違がはっきりと見て取れる。


 ヴァレリエは何事も無かったかのように、ほがらかにこの映画の冒頭にあった居間の食事のシーンを再現している。そこに以前と同様に、一見変わらぬ姿でお祖母様が食事の席に姿を現す。しかし両者の身に付けている衣服の色は冒頭の場面とは異なっており、ヴァレリエの衣服は黒から白へ、お婆様の衣服は白から黒へと入れ替わっているのである。御簾から花を投げる行為で暗示されていた時間性モメントの転換が、ここでは色彩に変換記述して反映されているのである。少女ヴァレリエのとりとめのない夢想が終わりを告げ、本来の日常が回復されたかのようにも一瞬思われたが、ここからこの映画の画面は再び激烈な変化の到来を暗示するものとなる。夢から覚めたと思われた後にさらにまた繰り広げられるもう一つの夢の世界のような、メタ構造的な夢幻世界の幕開けに似た様相が、これから次元を跳躍して展開されることになるのである。
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22 January

映画『闇のバイブル』研究 5

 しかしお父様は再び怪物の姿に戻ってヴァレリエに襲いかかろうとする。リヒャルドという名は、二人の役者によって共有されて演じられているのである。


 しかしヴァレリエは、再び真珠の耳飾りの力を用いて怪物の許から逃れ去る。
 次のシーンでは、ヴァレリエは何事も無かったかのように町の噴水で水浴をしている。水盤の中には美と聖性の象徴である睡蓮の花が咲いている。ヴァレリエは何の不安も感じることなく、満ち足りた幸せそうな表情である。このシーンに見受けられるような作品世界を支配する俯瞰的感覚が、原作には存在しなかったこの映画独特の基調音となっているのである。

 場面は変わって、ヴァレリエは再びリヒャルドに捕まり気を失ったままで、棺桶の中に収められたグラツィアンと牢獄に閉じ込められたエルサのいる地下室に連れて行かれている。因果関係の連鎖が分離して、分岐したもう一つの可能性の別種のシチュエーションが具現化し、起こり得たかもしれない可能態の異なる別の姿が顕現しているのである。現象世界は相矛盾する可能性の併置を許すことはないが、意識は現象発現以前の潜勢力の全てを含めて統括的な同一性として認知する特殊な能力を有しているのである。


 ヴァレリエは今度はリヒャルドによって棺桶の中に収められる。特定の経験を示す出来事が、相応する人物やシチュエーションを入れ替えて反復して出現しているのが、この映画の独特の創作戦略を形成している。奥に見える牢の中には、若い姿のエルサが幽閉されているのが見える。しかしヴァレリエはこの棺桶の中でも何故かもう一つの意識を持続して、リヒャルドとエルサの会話を盗み聞きしているのである。


ヴァレリエは再びオルリークの名をそっと呼ぶ。口に含んでいたイヤリングの真珠を手のひらに吐き出すヴァレリエである。この場面では、耳飾りの力を用いてヴァレリエを捕らえて棺桶に押し込めようとしたリヒャルドの裏をかいた可能性が示唆されているが、やはり明確な概念的情報が示されることはない。
 その時ヴァレリエの傍らにあった棺桶で、グラツィアンが息を吹き返す。そこでヴァレリエは何故かグラツィアンを揶揄し、挑発するかのような仕草をするのである。特定の人物に対して主人公ヴァレリエの抱く主観的な好悪の感覚が、彼女の存在属性そのものを決定しているかのようにも見える。



丁度その時救貧院の表では、花売り娘が運んできた手紙を救貧院の扉にかけているところである。
 ヴァレリエは、うろたえるグラツィアンを救貧院の外に連れ出してやる。花売り娘はどういう訳か玄関の脇の彫像の陰に身を隠している。


 花売り娘が運んで来た手紙は、オルリークから託されたものであった。ヴァレリエは、リヒャルドを破滅から救ってやったことにより、自分がオルリークを裏切ることになってしまったことを知る。オルリークの手紙の内容は、自分を見捨ててリヒャルドを選んだヴァレリエを責めるものであった。ヴァレリエは後悔の念に涙する。そこにヘドヴィカが現れる。


 ヴァレリエは、誘われるままにヘドヴィカの館に行く。ヘドヴィカはヴァレリエに首筋の咬み傷の跡を見せるが、そのヘドヴィカの姿は部屋の鏡に映っていない。


ヴァレリエは、ヘドヴィカとベッドで一夜を共にする。一夜を明かすと、ヘドヴィカの首の傷跡は消えてしまっている。ベッドの中で親しげに口付けを交わすヴァレリエとヘドヴィカである。


 町の広場の噴水のあたりでは、グラツィアンが人々を扇動して、ヴァレリエを糾弾している。ヘドヴィカの館を出たヴァレリエは、町でグラツィアンから魔女と決めつけられて敢然と抗議する。


しかしヴァレリエは群衆に捕まえられて、火あぶりの刑に処せられることになる。町の広場には、既に火刑台がしつらえられている。教会のミサに同席していた少女たちや、噴水でオルリークを襲った男たちもその場に勢揃いしている。


 無実の罪で火あぶりの刑にされながらも、今度は邪悪な魔女になりきって人々を愚弄する態度を取るヴァレリエである。矛盾をふくんで分岐するストーリーは、ヒロインであるヴァレリエの好奇心に満ちた様々な願望をそれぞれに具現している。ヴァレリエの周囲を取り巻く環境のみならず、主人公ヴァレリエ自身の存在性向もまた、複数の内実を秘めた多義的なものとなっているのである。オルリークやリヒャルドを相手に時に心を許したり時に撥ね除けたりと、考えられる限りの全ての可能性を試してみることができる生の放恣な体験の試行の世界が、ヘドヴィカやグラツィアンなどの人々をも巻き込んで道連れにする自分自身の運命の網羅的選択として具現しているのである。


 礼拝所にいた少女たちも皆、心配そうにヴァレリエの姿を見守っている。ストーリー展開上の受難は様々に生起するが、主人公の精神の安寧に決定的な影響を与えるような疎外や絶望は決して経験されることがない。



楽団の奏でる華やかな音楽が鳴り響き、火刑を執り行う町の広場では刑罰と祝祭が融合して一つになった複合的様相を示している。かつて処刑の実行が一般庶民の華やかな娯楽であったように、ここでは処刑に付されるヴァレリエ自身にとっても、自らの無実の罪による処刑が興味深いイヴェントとして体験されているのである。ヘドヴィカの結婚式を祝っていた楽隊も、同様に処刑の儀式に加わっている。
 ヴァレリエは、炎に包まれる火刑台の上でも怯えることもなく再び人々を嘲笑う仕草を続ける。しかし火あぶりの炎は、魔女あるいは殉教者を演じるには好都合だが、少しだけ熱い。



 ここにもいつもと変わらぬ優しげな表情でヴァレリエに花を捧げようとする、あの花売り娘の姿がある。彼女の存在は変化の中の安定性と、ヴァレリエの心霊の根幹的安全を保障する役割を果たしているかのようである。
 おそらくオルリークを裏切った自分への罰として火刑の責め苦を選んだのであろうヴァレリエも、とうとう辛抱しきれなくなって耳飾りの真珠を口に含む。


花売り娘は、燃え尽きた後の火刑台にも花を捧げている。この映画を常に支配しているのが、ここにあるような敬虔の念に満ちた儀式的な感覚なのである。

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21 January

映画『闇のバイブル』研究 4

周囲の誰もが自分に対して性的な関心を示し、それを拒むことができるのがヴァレリエにとっての大きな喜びである。そして主人公にはやっかいな人間関係を無化する特権として、日常の枠を超えた重大な異変の到来が約束されている。オルリークと共に戻ってきた館の中庭では、一面に流行り病に冒された鶏の死骸が散乱している。さらに館の窓からは、前夜ヴァレリエを襲った宣教師グラツィアンが窓の外でロープに首を吊って息絶えている。


 ヴァレリエとオルリークはグラツィアンの死体を地下室に隠すのだが、何故か隣の棺桶の中にはお婆様のエルサが眠っている。驚きのあまり気を失ったヴァレリエを抱いてオルリークが立ち去った後、お婆様は棺桶の中で目を覚まして二人の姿を見送る。そのお祖母様の口には、恐ろしそうな牙が生えている。


 ヴァレリエの従姉妹と名乗る若い女エルサが、館にいきなり姿を現す。エルサは、何故か真珠の首飾りを手にしてヴァレリエに近づく。エルサの保持する真珠の首飾りも、ヴァレリエの耳飾りと対応する魔術的器物であることが暗示されているが、その効能の詳細は解明されることはない。


エルサは、いきなりヴァレリエに襲いかかる。傍らの壁の上には、お父様の肖像画が掛かっているのが見える。


 しかし何故か途中で攻撃の手を止めるエルサである。ヴァレリエも、おかしなことに何事も無かったかのように、自室に戻って扉に施錠をしてベッドで休む。しかし再びエルサが、真珠の首飾りをかざしながら部屋に押し入ってくる。そのエルサの背後の鏡には、彼女の姿は映っていない。ヴァレリエはエルサによって縛られて小部屋に押し込められることになる。部屋の中では、不思議な歯車細工の機械のようなものが動いている。


 目覚めたヴァレリエは、部屋の床の穴を通して地下で男を誘惑するエルサの姿を目撃する。耳飾りの力を暗示する効果音と共に、縛めを解くヴァレリエの姿がある。ヴァレリエは、情交に耽りながら男を噛み殺して血をすするエルサの姿を目のあたりにする。今度は先ほどの男の場合と同じように、エルサはオルリークに対しても誘惑の手を差し伸べる。やはりヴァレリエは、この状況も同じ部屋の扉の鍵穴から目撃しているのである。時間の推移や具体的な関係性を一切省略して、エルサの示す攻撃と誘惑の悖徳的行為は、主人公ヴァレリエの主観の中の断片的な観念のみを具現化したもののようにも見える。



 ヴァレリエが閉じこめられた機械仕掛けのある小部屋は、彼女を監禁する密室であると同時に、彼女の意識と視点を夢の中のように肉体を離れて偏在させる効果を与える、心霊的な機能としての象徴性を持つもののようでもある。この位置座標喪失感覚は、リヒャルドに連れ込まれた救貧院の内部の場合と等質のものである。
 オルリークはエルサの誘惑をはねのける。オルリークは、ヴァレリエが奪われた真珠の耳飾りを巧みに取り戻してくれていた。先ほどのシーンではヴァレリエは、自分の耳飾りの力のおかげでエルサの首飾りの力から解放されたようにも見えたが、この場面では耳飾りを奪われてしまっていたようにも見える。これはストーリーの記述上の明らかな矛盾点であるが、むしろ異なった選択肢の採用に基づく網羅的可能世界の一つを暗示する、意図的なストーリーの分岐が語られているものとして理解できる箇所である。
 エルサはヴァレリエを閉じ込めた機械仕掛けのある小部屋で、自分も棺桶に入って眠りに落ちる。地下室と機械部屋の両方にある棺桶や、町と館の両方にある噴水の場合と同様に、人間や建造物や器物もまた固有の存在特性を限定されることがなく、各々が異界を繋ぐ通路もしくは出入り口のような機能を有して、連続的な関係性と多義的な存在性向を保有していることが分かる。
 ヴァレリエは、再びオルリークによって助け出されることになる。ここで映し出される小部屋の鍵穴から銃口を突き出して的を狙うこともなくいきなり発砲する様は、その無意味さの故に見事に儀式的な映像効果を発揮した記号的シーンを形成している。ナンセンスが巧みに映像化の処置を施して示された、極めて印象深い場面である。
 オルリークは救い出されたヴァレリエに、図書室の書架の上からギターを演奏して聴かせる。オルリークは、エルサから取り戻した耳飾りをヴァレリエに返してくれる。しかしそれに続けて思いがけなく言い寄るような素振りを見せるオルリークから、ヴァレリエはあわてて逃れ去る。小川でのシーンにあった求愛と拒絶の動作の反復がここにも繰り広げられる。


 映画の冒頭に映し出されていた温室の中の二つ並んだ男女の腰元に作られた蜜蜂の巣が、何かを象徴するように繰り返して映し出されている。ヴァレリエは、館の噴水の傍らを走って逃げ去る。


 噴水を媒介にして、シーンは町の広場に遷移する。町の噴水の周りには市が立っている。
 花売り娘がヴァレリエに花を手渡す。この花売り娘も、常にヴァレリエの姿を見守るように偏在的な登場の仕方をしている。


 ヴァレリエは、これから自分が取るべき行動の選択を花占いに委ねる。ヴァレリエが占いに用いたひなぎくの花には、血の染みが付いている。ヴァレリエは花占いの結果に従って鶏を盗み、救貧院の地下に赴く。そこではリヒャルドがエルサに裏切られて、死の瀬戸際に瀕しているのである。ヴァレリエは苦しむリヒャルドのところに駆け寄り、盗んできた鶏の生き血を啜って、口移しでリヒャルドに飲ませてやる。ヴァレリエの口元は、あたかも口紅を指したように血に染まっている。ヴァレリエの口付けを受けて瀕死の怪物は息を吹き返し、いきなり若々しいお父様の姿に変わる。


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