Archive for 19 January 2011

19 January

映画『闇のバイブル』研究 2

 ヴァレリエにとってこれから大人としての未知の新しい世界の幕が開けるのである。次のシーンには、楽しげに小川の辺を歩むヴァレリエの姿がある。


 数人ではしゃぎながら小川で水浴びをする娘達の一人が、卑猥な表情を浮かべて魚を服の中に入れている様子が映し出される。主人公ヴァレリエも、もうすぐ大人になったら彼等と同様の刺激的な体験ができることを心の中で期待しているのであろう。この水浴する娘たちの映像はヴァレリエの視点から物理的に観測された情景の筈ではあるが、同時にヴァレリエの内心に広がる妄想を反映したとも思えるものとなっている。主観と客観の分離が行われることなく、観察と夢想が存在論的に本質的な相違を持たないのが、この映像作品が前提とする仮構世界的基幹原理なのである。


 ヴァレリエが館の食堂で喜びに満ちた表情で朝食のジャムをほおばっているところに、祖母様のエルサが姿を現わす。


 耳飾りをもてあそぶヴァレリエの姿を目にして、お祖母様が咎める。しかし自分が大人になったことを伝えたヴァレリエに、彼女の母親も13歳で初潮を迎えたことを思い出し、お祖母様は俄に動揺を示す。壁には、ヴァレリエのお母様の肖像が掛かっている。


 食堂の窓の方からは、パレードの楽隊の音が聞こえてくる。それはヘドヴィカの婚礼を祝うために招かれた芸人の一行である。大通りを行進してくる芸人達を出迎えるように、大きな館の扉の前には、ヴェールを被り花束を手にしたヘドヴィカの姿も見える。


 町にやって来た芸人達に混じって、不気味な相貌を仮面の下に隠した怪物の姿もある 。鼬の仮面を再び装着しまた取り外すと、優しそうな面持ちの紳士の姿になっている。しかし次の瞬間にはまた怪物の姿に戻っている。少女の期待と不安に満ちた妄想の原因あるいは結果としてこれらの不気味な異形のものや対照的に好意的な様子のものたちの姿があるのか、あるいは彼等の不可解な相貌の変化が実際に秘匿された何らかの関係性を担っており、少女の身の上にその内実を露にすることになるのかについては、結局最後まで具体的な解明がなされることはないのである。


 ヴァレリエがパレードの一行の中に発見した怪物のことをお祖母様に話すと、エルサもその不思議な姿を認めて、強い衝撃を受けたように椅子の上に倒れ込む。外には町に入ってきた伝道師達の行列に歩み寄り、花を手渡す花売り娘の姿がある。


この花売り娘はヴァレリエの意識と知覚の偏在性を反映するように、常に等しい動作を行いながら様々の場面でヴァレリエの周囲に姿を現すこととなる。行列の御簾の中から手を伸ばして花を受け取り、彼女に祝福を授けるものがあるが、馬車の窓からは白いマルチーズの姿が見えているだけである。

 ヴァレリエが館でお祖母様の言いつけに従いハープシコードの練習をしているところへ、一羽の鳩が窓辺に降り立ってくる。その鳩の足には一通の手紙が結びつけられているのである。


 手紙を読むために一人温室に上がってきたヴァレリエは、中庭で卑猥に戯れる男と女達の姿を目にする。この場面で抱擁を交わす名を与えられていない男と女も、常に肉欲に任せて愛の行為に耽るものとして、この映画の中で一種の偏在性を示して繰り返し様々の場面に登場することになる。ヴァレリエは温室に隠れて椅子に身を落ち着け、こっそりと手紙に目を通す。


手紙の主はオルリークであった。この手紙は主人公ヴァレリエの生まれながらに背負う運命的な秘密の存在と、外界から闖入する刺激に満ちた冒険の双方を告げるものとなる。その手紙の書き手であるオルリークという名の人物も、ヴァレリエと血の繋がりを持つ兄弟であるのか、あるいは実は血の繋がりを持たない運命的な機縁で結ばれた恋人であるのか、いずれともつかない存在なのである。お祖母様に見つからないように、ヴァレリエは読み終えた手紙を焼き捨てる。主人公は決して無垢で純情な少女でばかりある訳ではなく、時に狡猾で移り気であったり、裏切りや嘘を自覚的に行ったりすることにもなる。


 娘達がミサに出席するために訪れた教会の中庭では、先ほど館の中庭で情交に身を任せていた若い娘が、今度は何故か倒れ伏した木の上で横たわり、一人怪しい快楽に耽っている。
 オルリークの手紙に書いてあった指示に従い、ヴァレリエは礼拝堂の庭の鳥籠の中に自分の衣服を隠す。しかしこの行為の持つ具体的な目的と意味は、曖昧なままで残される。自らの衣服を要求のままに他人に手渡すという象徴的な意味のみを担ったこの行為は、ある種の記号的な要素としてこの観念的仮構世界の中に導入されている。映像の持つ則物性は現象世界的概念解釈を拒む絶対意味単位素子として、純観念的仮構の中に導入される極めて有効な記号なのである。
 中庭にいた先ほどの娘は再び男と熱い抱擁を重ねているが、伝道師はその有り様を礼拝堂にやって来た少女たちの目から隠そうとしている。妖怪や怪物等の怪異の出現に代表される一般の“超自然”とは異なる現象的には飽くまでも自然な、しかし決して日常生活において実際にはあり得ない“不自然な”情景が現出しているのである。ファンタシーという仮構世界における“超自然”の要素の暗示する、可能世界論的に極めて興味深い事例のいくつかをこの映画は提供してくれているように思える。


 教会のミサでは怪物のような素顔を扇子に隠して怪しげな司祭が卑猥な言葉を吐き、娘達を禁じられた快楽の世界に誘惑しているかのようである。そしてまた町の中では何故か建物の壁面に、胸のポケットに一匹のマルチーズを収めた司祭の異様な姿が見えている。


 ヴァレリエは、町の噴水の脇で鎖に縛られて苦しんでいたオルリークを見つけ、彼を助けてやる。しかし彼女がどのようにして彼の縛めを解いてやったのかは、映像では明示されていない。あたかもヴァレリエの存在と意志そのものが、容易く彼の束縛を解く力を備えているようでもある。



 建物の壁を背にしていた怪しい司祭の姿は、オルリークを助けるヴァレリエを見張り続けていたかのようにも見える。
 そこにいきなりヴァレリエたちのところに現れて、噴水の水を鞭打つ男達の姿がある。しかし彼等がオルリークに襲いかかろうとしているのか、何らかの別な理由でたまたま彼の後を追っているのかは、はっきりとしない。意味不明の儀式的な場面を構築する不可解な演出がなされている箇所である。水に溺れている鳩の姿の映像が印象的である。オルリークは男達の追跡からなんとか逃げ出して、建物の扉の中に身を隠す。


 ヴァレリエは町の路上で不気味な司祭と出会う。しかしヴァレリエは何故か彼を恐れる風もない。司祭に救貧院への道を尋ねられたヴァレリエは、建物へ彼を案内していく。怪物のような司祭に捕らえられたのか、あるいは自ら彼に付き従ったのか、やはりどちらとも判断のつかない場面である。


 ヴァレリエが司祭と一緒に入っていった救貧院の内部は、怪しげな様子の器物に満たされた不思議な部屋と通路になっている。原作にはかなり詳細な記述があるこの建物の内部構造については、この映画はいかなる具体的な情報も観客に対して示そうとはしていない。視覚芸術ならではの、即物性と曖昧性が活かされた独特の演出が行われている箇所である。

 司祭に導かれて救貧院の内部にあった覗き穴を通して、ヴァレリエはお婆様と伝道師グラツィアンの忌まわしい秘密を盗み見る。ヴァレリエに観測されたお祖母様の占める位置情報と観測者であるヴァレリエが位置する救貧院内部の構造の関係についての詳細は、映画では一切無視されたかのように語られていない。中庭の噴水の脇に留めてあった馬車の中と同様の空間的関係性の離脱状況が、ここにも繰り返して暗示されているのである。実は原作の小説の記述とこの映画の創作戦略の重要な相違がこのあたりにある。


 グラツィアンに復縁を訴えかけるエルサがこの時どの場所にいたのか、救貧院とこの有り様を目にすることができた覗き穴はいかなる位置関係にあるのか、説明に当たるものは全く語られないまま、ヴァレリエの観測したおぞましい情景として映像だけが既定事項として示されることになるのである。(6)


(6)
  原作の小説の記述と対照してみれば、実はこの疑問はあまりにもたやすく解決されてしまう。文字による意味形成的記述を意図的に省いて、概念情報の欠落を巧みに偽装し暗示効果を最大限に増幅したのが、この映像作品の巧妙な創作戦略だったのである。本稿では敢えて原作との対照の具体例を遂一示すことはしなかったが、原作小説を検証してみればこの映画の画面の進行は驚くほど原作に忠実であることが判明する。それにも関らず、様々の暗示的なシーンの挿入と意図的な具体的情報の省略によって、この映像作品は原作にあり得なかった見事な曖昧性の効果を獲得しているのである。

14:18:16 | antifantasy2 | No comments | TrackBacks