Archive for 20 January 2011

20 January

映画『闇のバイブル』研究 3

 そこにオルリークがいきなりヴァレリエたちの足許に現れて、梯子を外して司祭を落下させる。しかし彼の突然の行動の目的も、この行為が司祭の身にどのような結果をもたらしたのかも、やはり明瞭に語られることはない。


 オルリークはヴァレリエを背中にかついで館に連れ戻る。彼女を司祭の許から救い出してくれたものらしいが、司祭のヴァレリエに対する思惑やそのたくらみとオルリークと彼の関係等の詳細は、やはり不明のままなのである。
 オルリークはヴァレリエを連れて館の鳩小屋に戻り、優しく音楽を奏でてヴァレリエをもてなしてくれる。


 しかしヴァレリエがオルリークと共に館の方を覗き見ると、そこには不気味な来訪者の姿がある。
 館を訪れたのは、パレードの中にいたあの仮面を被った怪物であった。お婆様は彼をリヒャルドという名で呼び、数十年振りの再会を喜ぶ。彼女のかつての恋人であったらしいこの男は、他の人物達と同様に名前以外の詳細は語られることはない。館の噴水の傍らで、演劇的な誇張した身振りを用いて繰り広げられる二人の印象的なやりとりである。


 ヴァレリエとオルリークは姿を隠してエルサとリヒャルドの会話を覗き見ている。ヴァレリエは何故か真珠の耳飾りを指に挟み、顔の上に掲げている。リヒャルドが鞭をふるうと、訳も無く館の噴水が怪しく燃え上がる。無意味さが見事に印象的な仮構的リアリティを構築することに成功している場面である。



 噴水は町の広場ではヴァレリエが水浴をする場であったり、オルリークが捕縛されていたりと様々なシチュエーションに独特の映像効果を担わされて繰り返し画面にあらわれるが、その都度担う象徴的な意義性は異なるもののようである。他の人物達の造形や仕草と同様に、外観的イメージだけは固定されているものの、その観念的内実は流動的に変化する不定的な意味を持つ存在物であるのだろう。それとは逆に広場の噴水と館の噴水は、交換可能な存在性向としての延長属性を共有している。空間において連続的に占められた座標的位置関係に基づいた同一性の認定条件とは異なる、形象と属性の相等性条件にのみ基づいた特殊な同一性解釈が別途に存在し得ることが暗示されている。
 ヴァレリエは館の鳩小屋でオルリークを送り出した後、一人で残された笛を奏でている。噴水での水浴の場面と同様に、他者との関係性に依存することなく単独で自らの官感に惑溺する放恣な感覚が暗示されている。冒頭にあったヴァレリエが食堂でジャムをほおばる場面と対をなすシーンであろう。

 館に招かれた伝道師のグラツィアンは、戸外でディナーの饗応を受ける。グラツィアンはヴァレリエに目を留め、彼女にもワインを勧める。お婆さまの許可を得て、ヴァレリエもこの時初めて大人の飲むワインを口にする。



 夜を迎えて自室の窓辺でオルリークの名を呼びながら、ヴァレリエが鳩を放すシーンが映し出される。ヴァレリエは再び真珠の耳飾りを手に取っている。しかし彼女が鳩を放す行動とそこで耳飾りの果たす機能の詳細については、一切語られていない。戸外には、ヴァレリエの目から身を隠すようにして外出するエルサの姿がある。
 その時ヴァレリエの部屋に押し入ってきたグラツィアンは、僧衣を脱いで卑猥な身振りでヴァレリエに迫って来る。伝道師グラツィアンは、実は好色な邪教徒であった。しかしヴァレリエは、真珠の耳飾りの力を用いて何とか難を逃れる。ここではヴァレリエは自ら死を選ぶことにより、グラツィアンによる不名誉な陵辱を避けることができたらしい。耳飾りの真珠を口にふくむことによって何かの効力を得られるらしいことは分かるが、その具体的な効能はやはり明確には示されていない。このあたりも原作の一意的な概念的記述に対する巧妙な改変が見受けられる部分である。



 館の外では、人々があわてふためいて鶏の疫病の発生を口々に叫んでいる。騒ぎ立てる人々の輪の中心には、リヒャルドとあの花売り娘の姿もある。
 意識を失って横たわるヴァレリエと、あわてて彼女を見捨てて部屋を出て逃げ去るグラツィアンである。ヴァレリエは外部から見れば死に陥った状態を偽装することができると同時に、意識と知覚は空間的束縛を離れてある種の偏在性を獲得し、人々の演じる様々な様態を彼等に知られることなく観測することができるかのようである。ヴァレリエには、この時エルサがどこかで怪しげな契約書に署名をしてリヒャルドに手渡す様が見えているらしい。


一方ヘドヴィカと花婿は、丁度その頃婚礼の晩餐会を終えたところである。こちらの情景も同様にヴァレリエの観察の対象となっているようである。町の金満家に嫁いだ新婦ヘドヴィカの姿は、生け贄か殉教者のような象徴的なポーズで画面上に示されている。この映画の中で活用されている、いくつかの象徴的な図像の一つである。


 婚礼の晩に臨んだヘドヴィカは、これから年老いた新郎との間で初夜を迎えることになるのを悲しむばかりである。館の自室で横たわったままである筈のヴァレリエは、何故か他所の館の内部の、新婦となったヘドヴィカの有り様を間近に覗き見ることができているのである。


 新郎と新婦の寝屋に潜んでいたリヒャルドとエルサが、ヘドヴィカに襲いかかる。自室で仮死状態に陥ったヴァレリエは、リヒャルドとエルサが現れたヘドヴィカの初夜の部屋の様を全方位的視線でつぶさに見守っている。意識の喪失を招く死や眠りは、肉体の桎梏を解いて空間の束縛を乗り越え、精神と知覚を様々のシチュエーションに自由に行き来させるものであるらしい。あるいはこの映画に描かれた一連の事件の全てが、少女ヴァレリエの夢想であったのかもしれない。リヒャルドとエルサの恐ろしい行動を目にしておののくヴァレリエの姿は、やはり自室のカーテンの傍らに映し出されている。実はこのような現象世界における論理の破綻を具現化することがファンタシーの基本戦略なのであるが、この映画では徹底的に映像表現を駆使して、この超自然の効果が実現されているのである。


エルサはヘドヴィカに襲いかかり、その首筋に噛みつく。その姿は正しく吸血鬼そのものである。目撃した場面のあまりの恐ろしさに、あわてて逃げ出し野原を駈けていくヴァレリエである。



 しかし彼女がどこから逃げ出してどこへ向かって駈け去ろうとしているのかは、定かにされてはいない。ヴァレリエがいかにしてヘドヴィカの婚礼の儀式が執り行われる館の内部の様子を確かめ、彼等の初夜の有り様とりヒャルドとエルサによる侵犯をどの様な手段を用いて目撃し、そしていかなる手順に従って脱出することができていたのかについては、映像表現の特質を活かして、結局最後まで具体的に語られることはないのである。
 ヴァレリエは逃げ去る途中で、再び縛られて懲らしめを受けているオルリークの姿を見つける。オルリークは小川の中で杭に手足を固定されて、水責めに遭わされているのである。


 ヴァレリエは広場の噴水の場面と同様に、オルリークの縛めを解いて助けてやる。やはりヴァレリエの存在と意志のみでロープの結び目を解くのに十分な力を持っているのか、手を触れただけで自ずから解けて行くオルリークの縛めである。自由になった途端、水に濡れたヴァレリエの姿に好色的な視線を向けたオルリークをたしなめ、ヴァレリエはハンケチでオルリークに目隠しをする。


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