Archive for 23 January 2011

23 January

映画『闇のバイブル』研究 6

 ヴァレリエの姿は、再び救貧院の扉の前に戻っている。耳飾りの力を用いて空間を移動したのか、あるいは時間を遡ってこの選択肢のイヴェントをやり直すことにしたのかは定かではない。ヴァレリエは再び口に含んでいた耳飾りの真珠を手の平に吐き出す。


 救貧院の中は、今度は売春宿か阿片窟のような有り様になっている。そこには何故か、火刑場にいた花売り娘や楽隊もいる。この映像作品の場面を形成する登場人物は常に一定であり、彼等の演じる役割が様々に様態の変化を選択する構図は、この映画の創作戦略上の基軸パターンをなすものである。


救貧院の内部では、若者と女を巡って諍いを起こす怪物のままの姿のリヒャルドがいる。リヒャルドに嘲笑されて激怒した若者は、ナイフを抜いてリヒャルドの背後から近づく。恋人同士を演じている男と女も、やはり常に同一の人物たちである。


ヴァレリエはリヒャルドのワインのカップにイヤリングの真珠を投げ入れる。ヴァレリエがリヒャルドを救おうとしているのか、それとも彼を倒そうとしているのかは、やはり定かではない。しかしワインを飲み干した途端、リヒャルドの様子に変化が起きる。リヒャルドの姿は苦しんでいるようにも、あるいは哄笑しているようにも見える。人々の仕草は、ほとんどいつも両様の解釈を可能にするような曖昧性に満ちたものになっているのである。それでも終に、リヒャルドは床に倒れ伏す。姿の見えなくなったリヒャルドの衣の下から、一匹の鼬が姿を現わす。周囲を取り巻く人々は、恐ろしい怪物リヒャルドの消滅を喜んでいるようである。


 阿片窟の窓の外を覗いたヴァレリエは、伝道師の一隊が行進してくるのを目にする。路上では、いつもの花売り娘が以前の時と同じ様に伝道師達に花を捧げているのである。今度は何故か御簾の中から外に花を投げ捨てる者がいるが、花売り娘は御簾に付き従って、路上に落ちた花を一つ一つ拾い上げている。この映画の前半にあった動作のモメントが逆行し、仮構世界を支配する物理的な根本原理の可逆現象が選択されつつあるようにも見える場面である。


 物語の物理的・意味論的構造性に対する際立って自省的な感覚は、この映像作品の特徴的な要素を形成することになる。ループ構造のターンの一つを完結させたかのごとく、仮構世界のシーンは再びヴァレリエの館に戻る。そこには以前と同様に、冒頭のシーンにあった温室の男女の木像にあつらえられた蜜蜂の巣箱の映像が映し出されている。その後には殊勝に祈りを捧げているヴァレリエの姿があらわされる。


温室の中には、椅子に座って安らかに眠入っているオルリークの姿がある。


 ヴァレリエは一人自室に戻り、ベッドの中で静かに休む。選び取った夢と妄想の一つのターンに、自ら終結を与えることを選んだようでもある。


 しかし教会ではやはりまだ、ミサの時に庭の木の上で怪しい快楽に耽っていた若い娘が、変わることなくいかがわしい素振りを続けているのである。類型的な夢物語との明らかな相違がはっきりと見て取れる。


 ヴァレリエは何事も無かったかのように、ほがらかにこの映画の冒頭にあった居間の食事のシーンを再現している。そこに以前と同様に、一見変わらぬ姿でお祖母様が食事の席に姿を現す。しかし両者の身に付けている衣服の色は冒頭の場面とは異なっており、ヴァレリエの衣服は黒から白へ、お婆様の衣服は白から黒へと入れ替わっているのである。御簾から花を投げる行為で暗示されていた時間性モメントの転換が、ここでは色彩に変換記述して反映されているのである。少女ヴァレリエのとりとめのない夢想が終わりを告げ、本来の日常が回復されたかのようにも一瞬思われたが、ここからこの映画の画面は再び激烈な変化の到来を暗示するものとなる。夢から覚めたと思われた後にさらにまた繰り広げられるもう一つの夢の世界のような、メタ構造的な夢幻世界の幕開けに似た様相が、これから次元を跳躍して展開されることになるのである。
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