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25 January

映画『闇のバイブル』研究 8

 ここからいきなり、これまでの秘匿された策略と狡猾な陰謀の存在を暗示する不気味な展開とは打って変わって、少女たちの清らかな声による祝祭的なコーラスが響き渡る。画面には何事も無かったように、幸せそうに口付けを交わすヴァレリエとオルリークの姿が映し出されている。


 唐突のフィナーレを迎えた映画は、形式通りのエンディングの様相を示し、少女たちの清澄な歌声による賛歌と共に、それぞれの人たちがそれぞれに愛を交わしあう様を映し出す。本編には描かれていなかった他の選択肢のもたらす種々の可能性の具現する様相が、改めて暗示されているようでもある。オルリークの御す馬車には、お祖母様とお母様とお父様とヴァレリエの4人が揃って乗り込んでいる。ここでは物語は、失われていた家族の再会と和解という幸せな主題に収束している。
 ミサで同席していた少女たちと町の広場でヴァレリエを火刑に処した男たちも、仲良く木の上で勢ぞろいしている。さらには、情愛深げに口付けを交わし合う少女たちの姿もある。


 怪物の姿のリヒャルドとエルサが親密に抱きあう姿もある。少女たちと楽隊も揃って穏やかな様子で水辺にくつろいでいる。


 花売り娘とヴァレリエの朗らかに並び立つ姿も、親しげな様子のお父様とヘドヴィカの姿さえもある。


リヒャルドの持っていた扇子を掲げたお父様と、従姉妹のエルサの持っていた首飾りを掲げたお祖母様の揃い立つ姿もある。この映画に登場したキャラクターたちの全ての存在性向と関係性の混淆と遷移が、網羅的に示されているのである。しかし伝道師のグラツィアンだけは、どうしてか教会にあった籠の中に閉じ込められている。


 そこで幼子と子羊を囲む少女たちの姿が映し出される。ここで終局を迎えると共に、全てを覆い尽くしたと思われた渾沌と猥雑は、この仮構世界の要求する支配的な祝祭のモメントの許に、一挙に聖性の様相を賦与されることになる。


オルリークと花売り娘が仲良く立ち並ぶ姿もある。

人々は集って森の中に置かれたベッドを囲んでいて、ヴァレリエはその中央でベッドの中に静かに身を休める。



 こうして聖歌隊の敬虔な頌歌を思わせる少女たちのコーラスと共に、ヴァレリエの奔放な夢の世界はようやく終焉を迎えることになるのである。
 ナレーションを用いて一意的な概念を選択してしまう言葉でストーリーを語ってしまったならば、そのシーンの内実は意味的に決定され、現象世界的に収束した物語像を伝えるものとなる。しかしこの映画では、シーンの一つ一つが概念を棄却した即物的な映像のみを効果的に用いて提示されているため、エピソードの各々が深い曖昧性を担わされており、ほとんどの状況において両義的な解釈を行う余地が残されたものとなっている。不吉な忌まわしい出来事が起きようとしているのかあるいは心地よい希望の実現がもたらされつつあるのか、主人公は被害者として虐げられているのかあるいはむしろ加害者として狡猾に振る舞っているのか、その答えは決して明らかにはされてはいないのである。
 ほとんど全ての重要なシーンにおいて、ヴァレリエを取り巻く登場人物たちには、表面に暗示されるものとは裏返しの筋の進行を示唆するような怪しげな仕草が用いられたり、疑わしい視線のやり取りが行われたりすることとなっているのである。



 映像として観客が目撃したものは主人公ヴァレリエの願望なのか畏怖なのか、あるいはそれ以外の他の何ものかでもあり得るのか、客観的な判断を行うための基幹的情報は、敢えて最後まで伏せられたままである。その曖昧性は、殊に終末とエンディングのシーンにおいて爆発的に増幅されている。エンディングにおいては、本編では描かれることの無かった可能性の暗示する様々の帰結さえもが、それぞれ一瞬の映像の断片を用いて脈絡もなく網羅的に提示されているのである。
 説明台詞に頼ることなく、さりげない些細な仕草の中に両様に解釈することのできる含みを持たせた演技は、かなりの集中力を維持して観続けることを要求するものである。この事実に見られるように、実は多くの場合言葉よりもむしろ映像の方が、その読解においてより高度の知性を要求するものなのである。そのような観点からこの映画に用いられている演技と演出上の工夫を再点検してみる必要があるに違いない。現象世界的リアリズムとは全く異なる構造原理に基づいた映像芸術作品 Valerie and Her Week of Wonders においては、生成する事象の位相を決定すべき観測者の視点を構築する位置情報が周到に撹乱され、さらに意識の裡における空間認識と肉体感覚の双方が個体あるいは現象として発現する以前の未分化の状態に還元された結果、経験された出来事の内実を記述すべき因果関係性の概念そのものもまた解体して、これらを反映すべき映像が相反する場面のそれぞれを平行に分岐させた多義的な描像として時間軸上に再配列されて、点描的に画面上に現出することになっていたのであった。

00:00:00 | antifantasy2 | 3 comments | TrackBacks