Archive for October 2009

24 October

学園祭公開授業 午前の部、映画もやることになりました

 始めの予定としては午後の部でアニメ研究をすることになっていたのですが、
午前の部に映画研究もすることになりました。以下に詳細を記します。

10月31日 10時30分から12時30分まで
 映画の中に描かれた夢幻世界ー多義性の世界 
 『闇のバイブル』(Valerie and her Week of Wonders)

11月1日 10時30分から12時30分まで
 映画の中に描かれた夢幻世界ー願望の迷宮世界
 『ラビリンス』(Labyrinth)

東館10階演習室2にて開催です。好きな時間に入退室して結構です。映画を観ながらおしゃべりするかたちの講義演習です。

 『闇のバイブル』の内容
 映画『闇のバイブル』(Valerie and her Week of Wonders)では、主人公が作品世界において担う筈の固有の役割も、またそれぞれの登場人物相互の関係も、さらにこれらの複合体として展開するストーリーの流れも、定まった一つのものに収束することがありません。様々の矛盾を含む平行した複数の出来事の束として、この映画は一個の作品世界を形成するには不定性としか呼びようのない不安定な意味を、映像とその映像から抽出される限りの制約ある観念で記述したものとなっているのです。
 そこに現出するのは、実は夢やとりとめのない夢想と同様の、個人の主観の中に脈絡なく浮かんだ、いわば現実の事象として発現する以前の、可能性の世界なのです。このようなメイク・ビリーブの操作にもとづく多義性の豊饒の海で遊ぶ感覚は、実は『ピーターとウェンディ』の中に描かれていた“ネバーランド”という世界と等質のものでもあります。
 登場人物それぞれの保持すると思われる作品世界内の位相と、各々の間の折々の関係性の全てを抽出し、暫定的に特定する操作を試みることにより、この映像作品において試みられた「不定性と流動性の世界の提示」という新機軸の映像表現の内実を、再検証してみることにしましょう。

参考テキストは以下のアドレスで
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27843527&comm_id=427647

 『ラビリンス』の内容
 映画『ラビリンス』の中では、オックスフォード大学の論理学の教授であったCharles Lutwidge DodgsonことLewis Carroll のお好みの、「嘘つきのクレタ人のパラドックス」(Cretan Liar)という論理学の問題が応用されています。さらわれた赤ちゃんを取り戻すためにゴブリン・キングのお城をめざす Sarah の前に、二つのドアが立ち塞がる場面があります。一つのドアはゴブリン・キングのお城に続いているのですが、もう一つのドアは “the Certain Death”(避けようのない死)へと続いているというのです。そして口をきくこのドア達の一方は必ず嘘を語り、一方は必ず真実を語るという決まりがあります。Sarah はただ一回きりだけ、どちらかのドアに質問をして、無事にゴブリン・キングのお城にたどり着かなければなりません。Sarahの迷い込んだこの夢の世界では、何故かこのようrule(規則) があふれています。しばらく考えたSarah は、そこで一方のドアに対してこのような質問を行うのでした。 

“Answer ‘yes’ or ‘no’, Would he [the other door] tell me that this door leads to the castle?” 
(「『はい』か『いいえ』のどちらかだけで答えてちょうだい。あちらのドアは、このドアがお城に行けるドアだと言いますか?」)

これに対する door の答えは “Yes.” でした。そこで Sarah は、

“Then, the other door leads to the castle、 and this door leads to the ‘Certain Death’.”
(「それではあちらのドアがお城に行けるドアで、こちらのドアが“避けようのない死”へ続くドアね。」)

と、正解を見つけてこの窮地を切り抜けることができるのです。

 論理学的には、このようなときには「場合」で分けて、仮定を用いて考えます。すなわち、もしも Sarah が質問をした方のドアが真実を語る方のドアであったとすると、彼の“Yes”は真実ですから、the other door が、「this door leads to the castle」と言うというのは確かにその通りですが、その語る言葉は嘘のはずですから、本当は、お城に通じているのは the other door のはずだということになります。
また、もしも Sarah が質問をした方のドアが、嘘ばかり語る方のドアであったとすると、彼の“Yes”は嘘ですから、the other door が、「this door leads to the castle」と言う、と彼がいうのは嘘で、the other door は、「このドアはお城に通じている」、とは言うはずはありません。ところでこの場合 the other door の方は真実を語るドアのはずですから、逆に彼が言うであろう「このドアはお城には通じていない。」という言葉はきっと正しいものとなります。従ってお城に通じているのはやはり先程と同じく、the other door の方のはずだ、ということが分かります。
結局のところ、この場面では、嘘つきのクレタ人は、決して「私は嘘をつく。」なんて言うことがない、という原理が応用されている訳です。

 この場面に象徴的なように、「ラビリンス」という映画は、実に巧妙に Alice books の作品世界の特徴を捉えて模倣してみせた、パロディとなっているのです。質の高いパロディとは、もとの作品の上っ面の物まねなどに終始するのではなく、原型の本質そのものを見事にとらえ、新たな表現を工夫してそれを語り直すものです。小説や漫画を原作にした映画で、出来の良いものにはめったにお目にかかることができないものですが、この「ラビリンス」には、Alice books を思い出しながら観ると、なるほど、とついうなづいてしまうようなところがあります。我々は「ラビリンス」のストーリーを追うことによって、Alice books のお話を再び新鮮にたどり直すことができるのです。


 参考テキストは以下のアドレスで
http://www.linkclub.or.jp/~mac-kuro/sample/lbrnth.html


23:34:14 | antifantasy2 | 20 comments | TrackBacks