Archive for September 2013

29 September

文化・教養講座テキスト

2013佐倉セミナーハウス文化・教養講座のテキストを公開します

二次創作作品の個別性と原作との同一性:

映画Peter Panと原作Peter and Wendyを具現する仮構的原型(1)


Identity and Individuality of Alternative Fictions:

Fictional Archetype and Equivalency of A Movie to the Original Novel (part 1)


要旨:映画作品Peter Panと原作の文学作品Peter and Wendyを対象にして、それぞれのシーンやストーリーの詳細項目の対比から同等性と差異性の要素となる実例を検証することにより、作品の保有する固有名詞概念に関する同等性判断の外延範囲の拡張を要求すると思われる存在論的問題性についての考察を試みる。手法としては観念小説の概念記述と映画作品の映像記述の間の種々の位相変換の過程を辿ることにより、量子的多世界解釈における平行宇宙において指摘し得ると思われる間世界的存在同一性と類比的な、意味空間における相当的同等性と可能態における分岐的発現可能性に対する示唆として仮構記述の内実を評価し、人格や現象において指摘し得ると同様の多宇宙的存在発現様態が映像的仮構において変換記述されていることの実例を示す。

キーワード:二次創作、同一性、相当性、仮構存在、原型、平行世界、映画、観念小説

 20世紀初頭にアインシュタインによって相次いで発表された特殊相対性理論(1905年)と一般相対性理論(1916年)は、従来の科学の基幹的枠組みを形成していたニュートン力学において宇宙の全ての領域で均一に作用する普遍的な物理的要因として理解されて来た“時間”という概念の、実は空間との連続性を無視することができない相互委属的な特質を主張することとなった。その結果、かつて経験則として当然のごとく受け入れられてきた瞬間の出来事の“同時性”という概念もまた、あえなく瓦解してしまう結果となったのである。
 さらにその後急速に発展した量子力学の拓いた知見においては、電子に代表される量子存在が特定の時間に特定の位置を占めるという物理的制約そのものを持たないことが認められるに至った。物質の最小構成粒子としてある原子の構成単位であるはずの素粒子が、存在物として空間上に占めるべきである固有の座標性から根本的に遊離した“不確定性”という基本特質を持つ、未知のなにものかであることが前提として受け入れられたのである。こうして科学的思考の基本単位を構築する筈の“客観的物理存在”という概念もまた、全面的に放棄を迫られることとなった。その結果、経験則的事象理解の基本前提にあった“個物の実体としての延長性”や“空間的座標性の時間的連続性において確証される存在物の同一性”という認識そのものに対して、日常経験の空間的・時間的制約を越えた高次元界面から総括的にこれらの概念の形而上的意義性を再確認することを可能にする、同一性と相当性に対する統合的理念把握が要求されることとなったのである。
 こうして知覚対象となる存在・現象・人格等の全てが、独立した個物としての同一性あるいは他者との相当性に関して、新たな観点からそれらの概念的特質の再検証を迫られることとなった。人格を一つの存在単位の持つ意味の複合体とする論理と、人間存在と目されていたものを時空の現象生成を局所的になぞった経験作用の過程として理解する描像が、連続的に記述されるべき統合観念場の展開が要求されているのである。当然のことながら、仮構作物の名称として受け入れられてきた純観念的存在物もまた、特にその“個別性”という実質ばかりでなく種々の二次創作作品や属性と主題性における類縁的存在に対する同一性概念適用の拡張範囲の延長可能性について、改めて考察を新たにする必要が生起することとなったのである。
 シェイクスピアが演劇作品『ハムレット』(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark, 1600~1602)を書きあげる遥か以前から“ハムレット伝説”と呼ばれるものは存在しており、 “原ハムレット”に相当すると思われる先行作品の存在も様々に指摘されてきた。 さらにシェイクスピア本人の手になる “オリジナル”とされるべき脚本においてさえも、二つ折り版、四つ折り版等のいくつかのヴァージョンが現存しており、これらのうちのいずれを厳密な意味でウィリアム・シェイクスピア作のオリジナル原稿として同定することができるかについては、様々の問題点があることが指摘されている。
 これと同様に“ファウスト伝説”も、ゲーテの脚本『ファウスト』(第1部1808年、第2部1833年)の発表以前から、民衆の間に様々に語り継がれていたものである。殊にイギリスではゲーテの戯曲『ファウスト』発表に遠く先立って、クリストファー・マーロウ作の戯曲『ファウスト博士』(Doctor Faustus,1604年出版)が1592年に初演を果たしていることは良く知られた事実である。これらのような伝説上あるいは歴史上の共通の登場人物を採用した主題的類似を持つ仮構作品に対しては、それぞれ“ゲーテの『ファウスト』、“マーロウの『ファウスト』”等の選別的呼称を付加することによって、各々の作品の一先ずの同定と分別を行うことができる訳だが、これらの仮構存在としての本質に即した原理的な“同一性”あるいは“差異性”を判断するための截然とした論理の存在が確証されている訳ではない。これら二作品が実は、一個の原存在的仮構の現象界面への投影として、一連の時空的因果関係の組み合わせを経て複数の作者の手になる作物として派生して生起した結果、「マーロウ版のファウスト」と「ゲーテ版のファウスト」となって現宇宙に具現していると理解する解式の存在も決して無視することができないのである。あの山のリンゴもこの山のリンゴと同じリンゴであると認定する論理が、「ファウスト」としての特徴と属質を備えた無数の仮構存在に対して同様に適用され得ることが推測されるからである。
 観念と指示対象となる実体の符合という同調原理が保障されていない限りは、あの山と言った場合の“山”という概念もこの山を指示した場合の“山”という概念も、主観の投影以上の確たる実質が確証されている訳ではない。唯名論的主張に従えば、あるがままの自然の裡には山どころか“リンゴ”や“木”や“植物”などの観念に対応するいかなる具象物さえも存在してはいない。同様に “事物”に限らず“試行”や“事象”についても何一つとして普遍的な同一性で括られる相等物がある訳ではなく、不可分の果てしない時間と空間の連続体と仮称されるものが、ただあるのみである。しかしながら、名辞の適用に関する解釈云々ではなく、肝腎の“実体”という概念がいきなり突っかい棒を外されて客観的相関物としての存在性を喪失してしまった場面に直面してしまったのが、20世紀以降の我々の思想状況なのであった。
 ハムレットやファウストのような伝説的キャラクターを主役にした仮構に対して 、“ピーター・パン”という特有のキャラクター存在を題材とする幻想物語については、先行例となる伝説や伝承らしきものは特に存在してはいない。スコットランドの劇作家ジェイムズ・マシュー・バリの奇想により20世紀に至って創出された、永遠に大人になることを拒否した少年ピーター・パンという異教神の位相は、伝説や神話の中に顕著な相関物を発見することが出来そうにないように思える。そしてまた彼の暮らしているネヴァランドという、子供達の心の中の未知の領域に繋がった異次元空間でもある、あり得ない理想郷もまた同様であろう。どちらも、伝説的類似存在を探すには、あまりにもモダニスティックな純粋な観念の産物である。しかしながらピーター・パンという特異なキャラクターが登場するバリの創作した“ピーター・パン物”にも、同じ作者自身の手になるいくつかの異なったヴァリエーションが存在するのである。最もよく知られた事例は、1904年に初演がなされた劇作品Peter Pan だろう。当時の演劇の常識からあまりにも乖離した作風に従ったこの実験的な舞台作品は、子供達の空中飛行場面等の舞台装置に多額の費用を必要としたにも関らず、興行的成功に対してはさほど大きな期待を寄せられてはいなかった。しかしながら製作者側の予期に反して、この奇想に満ちたエクストラバガンザは一般観衆の支持を得て、その後長きに渡って再演が行われたばかりでなく、様々の国々で繰り返し上演された結果、世界で最もポピュラーな劇作品の一つとなっている。上演毎の脚本の手直し等もあって、この劇の脚本が出版されたのは1928年に至ってからであったが、興味深いことに初演から7年後の1911年には、脚本の出版に先立って散文物語の形式で小説版Peter and Wendyが刊行されているのである。小説Peter and Wendyは、先行する劇作品Peter Panの中で語られていた仮構内情報を再構築するばかりか、読み手である当時の読者達が共有していたこの劇作品とその作者バリ自身の存在に対する様々な具体的知識そのものをも作品の題材として取り込んだ、極めてメタフィクション的主題性の顕著な観念小説であった。その特質はフックやウェンディ達様々の登場人物達の担う“語り”の機能と照らし合わされた、ナレーションを司るお話の語り手の存在に集約されている。 小説版Peter and Wendyは、この際立って魅力的なキャラクターを導入した作品の完成形として理解することのできる複合的な内実を秘めているのである。しかしその希有な実質は、現在ではほとんど忘れ去られていると言ってよい。さらにまた永遠に成長することのない子供であるピーター・パンという印象的なキャラクターを作者バリが最初に導入することとなったのは、劇作品Peter Panに先行する小説『白い小鳥』(The Little White Bird, 1902)においてであった。この物語に描かれているのは退役軍人の一人称の語りを軸に展開される抽象的な観念遊戯の世界であるが、ピーター・パンという特異なキャラクターは劇中劇的エピソードの中に登場するのみである。バリは劇作品Peter Panの上演の後に程なく『白い小鳥』の中程のピーター・パンの登場する部分だけを独立させて、短編小説『ケンジントン公園のピーター・パン』(Peter Pan in Kensington Gardens, 1906)として出版している。このように振り返ってみるとピーター・パン存在とは、バリの手になる複数の作品に通貫して登場する、いくつかの矛盾と偏差を含む複合的キャラクターなのである。
 これらの“ピーター・パン物”の全てを、連続的・多義的存在としてポテンシャル次元に潜在すると仮定される原型的作品基体 “メタ『ピーター・パン』”から、コヒーレンスの結果として一意的な意味の組み合わせに限定された波束の収縮過程を経て抽出された、個別性作品表象を具現した変化形の各々として理解することもできるだろう。当然のことながら未だ波束の収斂を得て現実の存在物として発現する機会を恵まれていない無数の可能的発現形として、属性要素の順列組み合わせに基づく種々の同位体あるいは変異形の存在も予測されることとなる。現実世界の中で人の手によって捏造された仮構存在は、現実内仮構として明らかにリアリティ世界の具象物の一部分を占めていると同時に、純理論的には現実世界に並列する無数の可能世界の一つを一平行宇宙内から参照する間世界的言及行為の具体例としても理解することが可能なものなのである。そこでは微小な属性決定要素の個々の取捨選択から導かれる無数の変化形のみならず、宇宙定数の改変や世界構成軸の根本的な置換に基づいた別次元界面の発現形もまた、連続的変換過程における等位段階に平列して展開される変異体として理解されることになる。このような概念自身の相互委属的な存在特性と多世界に通貫して存在すると仮定されるメタ原型概念存在の関連を考察する視点から、様々の二次創作作品を通して推測される原形質的な次元の情報的意義性を、量子論理的仮構世界論として考察することができるに違いない。
 このような企図に基づく仮構世界本体論に関わる論議に好適な具体例を提供してくれているのが、映画作品Peter Panなのである。Peter Pan は、P. J.ホーガン監督の手になる2003年公開の米・英・豪合作の映画である。 本作は1904年に上演されたジェイムズ・バリの舞台劇Peter Panの初演100周年を記念して制作された映像作品であるが、「ピーター・パン」と一般的に呼ばれる仮構作品名の指示対象の実質と類縁的存在 の関係性を考えるに当たり、一際興味深い特質を備えた内実を持つ仮構存在となっているのである。
 詳細にこの映画の映像記述とそのシーンに採用された個々の台詞の内容をたどってみると、小説版に導入された形而上的主題性を反映する具体的項目の一つ一つが、思いがけないほど忠実にたどられていることが分かる。その多くは、既存の科学的世界解式を超出する新規の実在論と宇宙論を模索しつつあったPeter and Wendy 刊行当時の人々の抱いていた哲学的関心を、浮き彫りにするものとなっているのである。実はJames Matthew Barrie の奇想小説Peter and Wendy は、時間と空間の関係と規定概念を大きく転換したアインシュタインの相対性理論の完成前夜の、科学と哲学の双方に造詣の深い当時の知識人達が共有していた、意識と物理存在の相互関連と再定義の可能性に関する先鋭な関心と、心理学と自然科学が交錯した思想状況を巧みに反映するものだったのである。ピーター・パンという人格でもあり観念でもあり意識内存在でもあるものと、ネヴァランドという心象でもあり異次元空間でもあるものが、主観意識の心象形成作用と密接な関係を持つ形而上的な複合概念として入念な操作を施して提示されているからである。
 19世紀末から20世紀初めにかけては、アインシュタインの相対性理論の発表とミンコフスキーの4次元時空の定式化に先立って、デカルト・ベーコン的事象理解の限界点の超出を意識した様々な実在論や本体論が提示されようとしていたのであった。ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、ニュートンが仮定した真空の3次元空間というモデルとは異なる場の概念を導入して、電磁気現象を解明する新規の物理理論を構築しようと企てていた。エルンスト・マッハは、局所的な作用の連鎖という事象の標準モデルに基づいて存在と現象のあり方を記述するニュートンの力学的描像を俯瞰するする視点から、全体性の世界との関連として熱的・電磁的・磁気的・化学的過程として物理現象を把握しようと試みていた。このようなマッハの思想と研究は、アインシュタインに多大な影響を及ぼしたことが分かっている。 さらにウィリアム・ジェイムズは、従来の局所的作用の機械的連鎖を行う力学的単位としての“物質”という概念に拘束されることのない観点から、心理的経験そのものを事象の本質として捉えることにより、ある種の“心霊的”原形質存在を仮定して事象発現に対する主観意識の関与を重視した現象把握を達成しようと目論んでいた。またアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、力学的作用を行う基礎単位である物質粒子に代替して、生起するできごとそのものを世界の基本的実在として考えようとする、現象学的本体論の構築を模索したのである。これらの科学者と哲学者達の関心に通底すると思われる心理学的な宇宙解式が、Peter and Wendyの様々の場面と記述に投影されていることを指摘することができたのである。
 原作Peter and Wendyに確認されるこのような思弁的陰影に富む仮構的内実を反芻しながら映画Peter Panに描かれた仮構記述を辿ってみると、ここにも原作との二重構造を暗示する二次創作作品としての位相を存分に活用した、精緻な哲学的思弁と緻密な劇作的工夫があることを確認することができるのである。
 映画Peter Panの冒頭では、原作にあった書き始めと同じ文字列のロゴを用いてタイトル画面を導いている。
All children grow up…… except one…… Peter Pan 文章記述の粋を凝らした高度な概念操作が展開されていた原作に倣って、この映画でも登場人物達の特徴的な台詞と並んで、原作を忠実に反映した文章記述が用いられている。しかし原作Peter and Wendyの最も印象的な文章記述は、小説としてのナレーション(語り)の中に見出すことが出来たのであった。作者バリ自身がお話の語り手として作中に登場し、積極的に読者に対して様々な呼びかけを行っていたのである。そればかりか話し手は物語進行の舞台裏で、作品世界の方位を決定するべき主要属性を担った重要人物であるダーリング夫人と仮想的な会話までも交わしながら、自在にストーリー展開の選択をして物語世界の構築を続けていく。そこには、語りの機能と読者の意識空間内に展開する仮構世界発現の相関という有機的なメカニズムを意識した、全方位的に展開したメタフィクションの機構が採用されているのである。映画版Peter Pan においても一見したところ原作の記述を忠実に踏襲したナレーションの音声が導入されているが、原作とは明らかに異なる大きな一つの変更がなされている。この映画のナレーションは、作者バリとは異なる女性の声によって行われているのである。その理由は、タイトル画面に続くこの映画の導入場面で既に暗示されていた。ウェンディは子供部屋で二人の弟達に得意のお話を聞かせてやっているのだが、彼女の語るお話の内容はこのようなものである。

 Cinderella flew through the air, far from all things ugly and ordinary. When she landed at the ball,
 she found herself most impertinently surrounded by pirates. There was Alf Mason, so ugly his
 mother sold him for a bottle o Muscat. Bill Jukes, every inch of him tattooed. And, cruelest of
them all, Hook, with eyes blue as forget-me-nots, save when he clawed your belly with the iron hook
 he has instead of a right hand, at which time his eyes turn red.

 シンデレラはつまらない醜悪な現実世界を遠く離れて空を飛んでいきました。ところが困ったことに、舞踏会
 の会場に降り立ってみると、彼女を取り巻いているのは海賊達でした。そこにはアルフ・メイソンもいました。
 あまりにも醜いため、母親に葡萄酒一瓶と引き換えに売り渡された男です。ビル・ジュークスもいました。体
 中一杯に入れ墨が彫られた男です。そしてその中でも最も残忍なのは、キャプテン・フックでした。その目は
 忘れな草の花のように青いのですが、彼の鉤爪で人の体を引き裂く時だけはその色を変え、血の色に染まるの
 です。

ウェンディの語るお話の主人公のシンデレラは、現代の陳腐で醜悪な現実世界を遠く離れて空を飛んで行き、お伽噺に語られていたようにお城の舞踏会の場に降り立つのだが、そこに待ち構えているのは現実離れをした不気味な風貌の凶悪な海賊達である。ウェンディによって物語られている海賊達の姿は、善良な銀行員の娘の話す内容にはふさわしくないような、猟奇的な怪物的相貌のもの達なのである。この少女のアレンジになるシンデレラ物語は、20世紀を迎えた現代英国の良識的な社会に飽き足らない、冒険と不思議に満ちた夢物語どころか怪異と残虐にさえも憧れる彼女自身をお伽噺の主人公と同化させたものとなっている。原作においてもやはりウェンディは、ネヴァランドのロストボーイズ達に対してお話の語り手としての役割を果たしていた。しかし映画では彼女の語り手としての関与と特質は、さらに主題との相関を増幅したものになっているのである。ウェンディの語りの内容は、原作の主要テーマであったピーター・パンに代表される子供達の持つ、他者の心の痛みを顧慮することを知らない“heartlessness” (非情さ)というはなはだ利己的で残酷な特質との関わりを暗示しているのである。この要件についてはこの映画の随所でも見事な変換記述がなされているのみならず、原作とは異なる印象的な大団円を導く結果ともなっているのである。ウェンディがフックの手下の海賊達一人一人の不気味な姿ばかりでなく、彼等の素性や悪逆を尽くした経歴までをも弁えて嬉々としてそれを語っていることに、この事実が示されている。殊にピーターの仇敵であるキャプテン・フックについての描写などは、平凡なイギリス人の一少女が知るはずもない、作者のみが知る特殊な裏の世界の知識に属するものである。 ウェンディがこれらの秘匿された情報を、一体どこから得てきたものであるのかが疑問となるだろう。ひょっとしてこのウェンディは、原作者バリの書いた奇想小説『ピーターとウェンディ』を実際に読んだことのある、原作を俯瞰する視座を持つ別の“ウェンディ”でもあるのかもしれない。もしもそうであるとするならば、彼女がこれから示すことになるピーター・パンのお話の世界の詳細情報に関する様々な言及も、納得のいく説明がつくことになるに違いない。
 ウェンディが自宅の子供部屋で弟達に語って聞かせているこれらの海賊達の姿は、原作ではお話の中頃になってようやく、実際にフック率いる海賊達が登場した場面の描写として記述されていたものである。そこでは作者自身が一人称の語り手として登場し、お話の中に語られている登場人物達以上の存在感を主張していたのであった。この作者が語っていた取り分け重要な情報は、ピーターの仇敵フック自身も優れたお話の語り手であったという事実である。映画においてはおそらく意図的にこの情報は伏せられていて、むしろウェンディ自身の関心とキャラクター特性として、彼女の語り手としての役割が原作のウェンディ以上に強調されているのである。
 念のため、原作にあった作者自身のナレーションで語られていたキャプテン・フックに関する記述を改めて確かめておくことにしよう。

 In person he was cadaverous and blackavised and his hair was dressed in long curls, which at a little
 distance looked like black candles, and gave a singular threatening expression to his handsome
 countenance. His eyes were of the blue of the forget-me-not, and of a profound melancholy, save when he
 was plunging his hook into you, at which time two red spots appeared in them and lit them up horribly.
 In manner, something of the grand seigneur still clung to him, so that he even ripped you up with an air,
 and I have been told that he was a raconteur of repute. (p. 54)

 フックの顔は死人のようにやつれて浅黒く、その髪は長い巻き毛になっていて、少し離れてみると黒いろうそ
 くのようにみえて、彼の整った顔つきに特別の恐ろしげな雰囲気を漂わせていました。フックの目は忘れな草
 のような淡い青色で、深い憂鬱を湛えていました。そして君の体にあの鉤爪を突きたてる時だけは赤い二つの
 光がその両目にあらわれ、ぞっとするような表情をみせるのでした。フックの仕種にはどこか血筋正しいお殿
 様を思わせるようなおごそかさがあって、人の体を切り裂く時でさえ、優雅な身のこなしに思えるのでした。
 そして私の耳にしたところですと、フックは面白い話をするのが上手だという評判だそうです。

原作のナレーションを通して語られていた作品の設定に関わる重要な情報の多くが、映画では作中でウェンディが語るお話の文句として置き換えられていたことになる。映画では語り手の作者バリの姿は完全に姿を消し、ストーリーの進行を司るのはキャラクター特性を殊更に主張することなくウェンディに同化した、無名の女性の声となっているのである。そしてウェンディは、平凡な良家の子女が知っているにはかなり教育的に問題もありそうな無頼の海賊達に関する様々の背景知識を備えて、奇怪な彼等の姿を活き活きと語り伝えるのである。ピーターやロストボーイズ達の備えていたのと同様の少年らしい冒険心と闘争心の持ち主として、映画版のウェンディは冒頭から独特の存在特性を発揮している。彼女は、いかにも女の子らしい家庭的な性格の持ち主であった原作のウェンディには見られなかった積極的な一面を、この後にも随所で披露することになるのである。
 映画では原作Peter and Wendyの語り手の言葉をそのまま引き継いで、女性によるナレーションの声が仮構世界の進行を受け持っている。

  The night on which the extraordinary adventures of these children may be said to have begun,
 was the night Nana barked at the window.

  ダーリング家の子供達の不思議な冒険の始まりとなったとされる晩は、ナナが窓に向かってしきりと吠え立
 てた晩でした。

しかし原作の文章記述においては、この場面でも物語の全体像を見通す作者の語り手としてのキャラクター特性が滲み出るものとなっていたのである。

  But Wendy had not been dreaming, as the very next night showed, the night on which the
 extraordinary adventures of these children may be said to have begun.
  On the night we speak of all the children were once more in bed. It happened to be Nana's evening
 off, and Mrs. Darling had bathed them and sung to them till one by one they had let go her hand and slid
 away into the land of sleep. (p. 13)

  けれども翌日の晩はっきりと分かったように、ウェンディは夢を見ていたのではありませんでした。この晩
 こそダーリング家の子供達の不思議な冒険の始まりとなったのでした。
  お話をするこの日の晩は、子供達はみんなもう床についていました。その日は丁度ナナが晩にお休みを頂く
 ことになっていました。ですからダーリング夫人が子供達をお風呂にいれ、枕元で歌を歌って、子供達が一人
 一人お母さんに握ってもらっていた手を離し、眠りの世界に旅立つまで付き添ってあげていたのです。

原作のナレーション記述においては、これから起るはずの出来事が、読者と情報を共有する語り手によって既知の事柄として処理されていることが分かる。これは読者の多くが劇作品『ピーター・パン』の内容を既に詳しく弁えていた事実を畳み込んだ、原作において顕著なものであった再話のメカニズムを活用したメタフィクションの機構である。さらにまたPeter and Wendy成立の背景知識を振り返ってみれば、お伽話の常套が因果関係の逆転や過去と未来の時間軸の混淆として観念遊戯的な要素を強調して語られることによって、現実世界の事物と仮構世界の意味の根源にあると予測される原存在的情報を連接させ、時間と空間の深奥にある原型質的連続体の存在を示唆することを図ろうとする、先鋭な問題意識を潜めた記述であるかのようにも思える。
 メタフィクションは、ポストモダニズムの潮流の中で実験的な小説の作品世界提示の手法として多用された記述技法であり、実在世界の参照方法の革新を企図して量子力学の世界解式を導入した新規の文学論を判別する指標でもあった。しかし実はこの記述手法は、むしろ伝統的な語りの技法の本源に存在していた、言説と指示対象の関係を反射的に捕捉する観照的契機を探ることを目論む、文学における生成因をなすと思われるむしろ伝統的な哲学的主題なのである。
 女性の声による映画のナレーションは、さらにダーリング家の両親の姿を観客に紹介して語る。

 There never was a happier, simpler family. Mr. Darling was a banker who knew the cost of
 everything, even a hug. Mrs. Darling was the loveliest lady in Bloomsbury, with a sweet, mocking
 mouth that had one kiss on it, that Wendy could never get. Though there it was, perfectly
 conspicuous in the right-hand corner.

 これほど幸せ一杯の家族など他にありませんでした。ダーリング氏は銀行員で、何の値段でも知っています。
 一つ抱きしめたらいくらかかるかさえ計算することができました。ダーリング夫人はブルームズベリーの街で
 一番の美人で、あの人をからかうような魅力的な口許がありました。そして彼女のその口許には、ウェンディ
 がどうしても手に入れることのできないキスが一つその上に浮かんでいました。右の端にあるのははっきりと
 見えてはいたのですけれど。

原作を彷彿とさせるような気の効いたダーリング氏の職業の紹介と共に、ピーター・パンのお話の中で誰よりも重要な座を占めるダーリング夫人と、彼女の主要な特性の具現化である神秘的なキスが語られている部分である。原作にあった語り手の記述を確認してみると、ここでも重要な部分がいくつか省略されていることが分かる。

  Of course they lived at 14 , and until Wendy came her mother was the chief one. She was a lovely
 lady, with a romantic mind and such a sweet mocking mouth. Her romantic mind was like the tiny
 boxes, one within the other, that come from the puzzling East, however many you discover there is always
 one more; and her sweet mocking mouth had one kiss on it that Wendy could never get, though there it
 was, perfectly conspicuous in the right-hand corner. (p. 7)

 勿論のこと、みんなは14番地に暮らしていました。そしてウェンディが生まれるまでは、一家の主役はお母
 さんでした。ダーリング夫人は素敵な女性で、ロマンティックな心を持ち、あの人をからかうような魅力的な
 口許がありました。ダーリング夫人のロマンティックな心は、いくら開けてもまだ次から次に中から出てくる、
 不思議な東洋からやって来た小さな小箱のようでした。そして彼女の魅力的なからかうような口は、ウェンデ
 ィがどうしても手に入れることのできないキスを一つその上に浮かべていました。右の端にあるのははっきり
 と見えてはいたのですけれど。

原作の記述の出だしにof course”とあるのは、語りつつあるお話の筋について読者が既に了解済みであるかのように話を進めるという、伝統的なおとぎ話の手法を取り入れているものである。また同時に、劇Peter Panの上演の後しばらくたってからこの小説版Peter and Wendyが出版された経緯を反映してもいる。つまりPeter and Wendyを手にした読者の大部分が、このお話の筋のあらましを実際に知っていた筈なのである。この後も原作では“of course”が繰り返して用いられることとなっている。これらは作品内においては明示的に語られていない作品外部(extra literary)の情報の存在を意識した語りの手法として、興味深いメタフィクション構造を提供してくれている。映画ではダーリング夫人と語り手のキャラクター特質が希薄化され、ウェンディを中心にストーリーが進行して行くのであるが、原作にあったメタフィクション的主題性に対する反射性は確かに保持されている。しかしダーリング夫人の持つ神秘的な要素として語られていた“入れ子構造の小箱”に対する言及は省略されている。この発想は原作ではネヴァランドと照らし合わされて、トポロジーと座標概念の常識を覆す革新的な宇宙論として、ホログラフィー的世界解式を構築する形而上的主題性を暗示していたものであった。
 さらにまたこの映画では、原作には語られていなかった別のナレーション記述が付加されている。それは
原作には登場しないもう一人の人物であるミリセント伯母さんに関するものである。

 And sometimes there was Aunt Millicent, who felt a dog for a nurse lowered the whole tone of the
 neighborhood.

 そして時々、ミリセント伯母さんがやって来る日もありました。伯母さんは犬に子守りを任せるなんてことは、
 街中の品位を落とすことになると感じていました。

映画ではこの後、ミリセント伯母さんを迎えてダーリング家の家族の一人一人が彼女の前で芸を披露する場面が映し出されることになる。ところがウェンディの出番を迎えても、彼女が口を開く前に先に口を出してしまうのが彼女の弟達である。

 Wendy’s turn. / Wendy must tell a story. / Cecco, who carved his name on the governor at Goa. / Noodler,
 with his hands on backwards. / Hook, whose eyes turn red as he guts you.

 次はウェンディの番だよ。/ウェンディはお話をしなくちゃね。/チェッコはゴアの総督の背中に剣で自分の名前を彫り込んだ奴。/ヌードラーは両手が逆向きに付いている奴さ。/それからフックは、人の体を切り裂く時には両目が赤く光る。

謹厳実直なミリセント伯母さんを失神させてしまうような非道徳的な話題を無神経に語り始める弟達だが、彼等は普段から繰り返しウェンディのお話を聞かされているので、彼女が語る筈のお話の中身を既に暗記してしまっているのである。物語る予定のお話の中身が聴衆の一人によって先取りして語られてしまう、というお話の語りについての記述に見られるメタ構造性は、原作の主題であった語りの反射的意義性にもう一捻り付け加えたものとなっているかもしれない。ウェンディは弟達の声援に元気づけられて、これまで秘めていた自分の将来の夢をミリセント伯母さんに語ってしまうことになる。

 My unfulfilled ambition is to write a great novel in three parts, about my adventures.

 私の将来の夢は、自分の行った冒険を3巻構成の長編小説に書き上げることなんです。

 当然ながらミリセント伯母さんは、退屈極まりないお説教を始めて結婚相手を見つけることの大事さを説き、ウェンディの夢を萎ませようとする。しかし社会の常識に凝り固まって子供達の子女教育に口を出そうとするこの鬱陶しい伯母さんの存在だけでなく、冒険心と活力に溢れたウェンディの属性自体が原作には語られていなかったこの映画独自の重要な主題なのである。伯母さんはそのウェンディの夢を全く理解していない。

 But, child, novelists are not highly-thought-of in good society. And there is nothing so difficult to marry
 as a novelist.

 でもね、小説家という職業は社交界ではあまり高い評価を得ていないのよ。小説家ほど結婚に向かないものは
 ありませんね。

だが興味深いことに、これまで家族の誰も思いつくことのなかったウェンディの女の子としての成長と魅力について語ってくれるのも、このミリセント伯母さんなのである。

 Wendy possesses a woman’s chin. Have you not noticed? Observe her mouth. There, hidden in the
 right-hand corner. Is that a kiss?

 ウェンディの顎の線はもう大人のものね。気がつかなかった?口のところをごらんなさい。ほら、右端に見え
 るのは、これはキスじゃないこと?

このミリセント伯母さんの指摘によって、映画のウェンディもまた原作ではお母さんのみが与えられていた占有的属性を暗示していた、口許のキスを共有することになっている。このように語り手である作者の存在だけでなく、ダーリング夫人やウェンディも原作とはかなり異なる改変を施されているのが、この映画の見逃すことのできない特質なのである。弟達も敏感にミリセント伯母さんの言葉に反応する。

A kiss? / Like Mother’s kiss. / A hidden kiss.  キスだって?/お母さんのと同じだ。/秘密のキスだ。

ウェンディはミリセント伯母さんに尋ねる。ミリセント伯母さんはしたり顔で答える。

 But what is it for? /It is for the greatest adventure of all. They that find it have slipped in and out of
 heaven. / Find what? / The one the kiss belongs to.

 でもキスって、何のためにあるの?/それはね、最も素晴らしい冒険のためにあるのよ。キスを見つけてしま
 った人達は天国にも行けるし、行けなくなってしまうこともあるわ。/何を見つけるですって?/キスを持っ
 ている人をよ。

ミリセント伯母さんの言葉は、これまで家族の誰も思ってもいなかった新しい感覚を一家に持ち込む。そしてお父さんのダーリング氏も、ミリセント伯母さんの指摘に深い感動を覚えるのである。

 My Wendy,… a woman. 私の娘が、おとなに……

原作では語り手である作者の偏愛のためにダーリング夫人のみが所有することを認められていた神秘的なキスが、映画ではこうして彼女の娘のウェンディにも認められることとなり、この不思議な言葉が本来意味していた宇宙の本源と結びついた霊的直観能力は、大人の女性としての性的魅力に変換されてしまう。そしてこのキスの魅力に抗う母性からの離反者が、原作に描かれていたピーターなのであった。映画板Peter Pan は詳細に原作の文章記述をたどっているようで、実は原作の仮構世界としての基本軸を根底から転換しようと企てているのであった。
 しかしミリセント伯母さんは、ウェンディ達にとっては大変迷惑な提案を両親に持ちかけることとなる。それは二人の弟達と子供部屋を共有して夢と冒険の世界を日々紡ぎだすことを喜びとしていたウェンディにとっては、堪え難い生活の変化を意味するものである。

 Almost a woman. She must spend less time with her brothers and more time with me. She must
 have her own room. A young lady’s room. Leave the….

 もうほとんど大人の女性ね。もう弟達と生活を共にするのは止めて、私の許で指導を受けなくては。個室が必
 要ね。若い女性のための私室よ。もう子供部屋は卒業して……

こうしてしてウェンディと弟達は、ミリセント伯母さんが両親に向かってウェンディの結婚を頭において社交界をもっと利用するように助言するのを、ドアの外の通路で少なからずの動揺を持って聞くこととなる。

 The daughter of a clerk cannot hope to marry as well as that of a manager. You must attend more
 parties… make small talk with your superiors at the bank. Wit is very fashionable at the moment.

 会計係の娘なんて支配人の娘のような有利な結婚は期待できないものよ。あなたもこれからもっとパーティー
 に出なければ。銀行の上役達と気の効いた会話をするの。今はウィットの才能がもてはやされるのよ。

このような次第で、ウェンディが現実世界を捨て去って自らの意思で夢の世界ネヴァランドに逃避することを希望する条件が整えられてしまうのである。『ピーター・パン』と名付けられたこの映画の主役が、ピーターではなくウェンディに置き換わってしまっている。成長しない子供であるピーター・パンに替わって、この映画はウェンディの成長物語を基本軸とすることになる。これは原作の基本設定の大幅な改変であると共に、実は原作にあった観念小説としての特質である捻転した観念的主題性を、見事に踏襲したものともなっているのである。
 このような成り行きの後で、ようやくピーターの子供部屋侵入の場面が導かれることになる。自分のベッドの真上で宙に浮かんでいたピーターに気がついたウェンディは、素早く窓から姿を消したピーターを心配して外に降りてみるが、そこにもう彼の気配はない。ナレーションの声はその様子をこう伝える。

 But there was no sign of a body. For none had fallen. Certainly she had been dreaming.

 そこには何の痕跡もありませんでした。誰も落ちてはいなかったのです。きっとウェンディは夢を見ていたの
 でしょう。

この後、ミリセント伯母さんの果たした役割を補完するかのように、ウェンディの引き起こした学校でのエピソードも語られることとなる。これも原作では全く記述の無かった、この映画の新規の創作による興味深い場面である。授業中にノートの落書きを先生に見つかってしまったウェンディは、先生の厳しい詮索を受けることになる。ウェンディがノートに描き込んでいたのは、ベッドに横たわる彼女を宙から見下ろしている一人の人物の姿であった。先生は厳しくウェンディを問いつめる。


If this is you in bed, … what is this? / A boy.
  Miss Fulsom dispatched a letter of outrage to Mr. Darling…that set new standards of prudery
 even for her.

  これが貴方のベッドなら、ここにいるのは誰? / 男の子です。
  フルサム先生は怒りに満ちた手紙をダーリング氏に書きました。それは彼女自身これまで聞いたことのない
 程激烈に、子女の貞淑を守ることの重要性を説いたものでした。

ちなみに原作では、ダーリング家の子守りを勤めている犬のナナがウェンディの弟達を送って行く学校の名前が“フルサム学院”となっていた。原作にあった種々の意味情報が様々の撹乱を施された結果、順列組み合わせを違えた新しい意味連繋を備えてこの映画の仮構世界を再構築しているのである。これは現代の量子理論の素粒子の不確定性という特質に基づく平行世界解釈を弁えた観客には、取り分け興味深い細目事例となるだろう。
 映画のナレーションは、さらにパーティーに出席して慣れない社交的会話に挑戦しようと努力しているダーリング氏の姿を紹介する。

 Mr. Darling had been practicing small talk all afternoon. “--I say, it’s nice weather we’re having…. ”
 And now his opportunity had arrived. Sir Edward Quiller Couch, the president of the bank…was a man
 who enjoyed small talk almost as much as a good balance sheet.

 ダーリング氏はこの日の午後中、パーティーでの会話を練習していました。「いやまったく、いいお天気です
 な…。」 そして練習の成果を試す機会が訪れました。銀行の頭取のエドワード・クィラ・キーチ卿は、会計
 帳簿に劣らぬほど気の効いた会話を好む人でした。

ダーリング氏はフルサム先生が出したウェンディを告発する手紙の一件がもとで、折角上司のご機嫌を取るために出席したパーティーで大恥をかいてしまうことになる。その直接の原因となってしまったのは、ウェンディのためにこの手紙の配達を阻止しようとしたナナだったのである。原作では全く語られていなかったこのエピソードは、原作にあったのとは異なった経路をたどって原作と同様のストーリーの進展を導くことになるのである。可能性の束として様々の矛盾を相殺して不確定の状態にある原存在から抽出された分岐的平行世界の記述として読み取れるのが、この映画板Peter Pan の各々のエピソードなのであった。
 ダーリング氏はナナに八つ当たりをして哀れな飼い犬の誇り高い子守りの地位を剥奪し、この忠実な番犬を中庭で鎖に繋いでしまう。こうしてダーリング氏は自らの過失のために、自宅への再度のピーター・パンの侵入を許してしまうことになるのである。そこに語られているダーリング氏の台詞はやはり原作には存在しなかったものであるが、原型的仮構世界Peter and Wendy の示しうる可能態の一つとして、原作者バリの作家的特質と作品自体の個別性を見事に再現した、妙味ある台詞となっているのである。

 I have been humiliated! I must become a man that children fear and adults respect, or we shall all end
 up in the street! This is not a nurse! This is a dog! Tomorrow, you begin your instruction with Aunt
 Millicent. It’s time for you to grow up!

 恥をかかされてしまったぞ! 僕は子供に恐れられ、大人に尊敬される人にならなくては。さもないと家族全
 員が路頭に迷うことになる。こいつは子守りなんかじゃない!こいつはただの犬だ!明日からは、お前はミリ
 セント伯母さんの指導を受けるんだ。お前も、もう大人にならなくてはいけない時期だ!

このままではウェンディは、弟達と繰り広げてきた愉快なお話と想像の世界から放逐され、退屈な淑女教育を施されることになるのである。ウェンディは克服すべき苦難と窮地を救う解放者を必要とすることになる。こうしてこの映画は、“ウェンディの物語”として基本軸を入れ替えて位相変換した紛れも無いピーター・パンの物語のもう一つの変化形を、映像記述を用いた二次創作作品という形で見事に具現化していくことになるのである。

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H25佐倉セミナーハウス文化・教養講座

H25年度の佐倉セミナーハウス文化・教養講座は、以下の要領で行われます。

佐倉セミナーハウス階段教室にて開催
10月5日、12日、19日(土曜日)午後1時から4時まで

演題:
映画『ピーター・パン』と原作『ピーターとウェンディ』:
原作と二次創作―仮構作品の“個別性”と“同一性”を考える

 映画Peter Panの様々なシーンを原作Peter and Wendyの記述と比較し、巧みに人物や台詞が入れ替えられて換骨奪胎された結果、ウェンディが主役の大幅に主題が変化した物語になっていることを指摘します。しかしそれでもこの映画が原作との同一性を保持していると考え得る根拠は、可能世界の論理とパラレルワールドの発想にあります。知的な観念小説を映像化した変換記述として、演出を計算され尽くした映像作品の内実を検証していきます。


1 Peter and Wendyとアインシュタインの相対性理論誕生前夜の思想的動向
 マッハの哲学とニュートン力学批判
 マクスウェルの電磁気学と素粒子理論
 影の世界解式と神智学―全体性の宇宙論と心霊学研究
 異教の神の復興―デーモンと妖精とパン神

2 論理的不可能世界であるネバーランド
 集合的無意識と妖精存在―守護天使と背後霊
 分岐する平行世界と可能態として潜在するポテンシャリティの世界
 ファインマンの歴史総和法―あり得た可能性の全てを網羅する存在記述
 情報の順列組み合わせにより無限のヴァリエーションを具現する仮構世界

3 原作の主人公は実はキャプテン・フックだった
 反実仮想の語りの手法―曼荼羅とフラクタルと個体の同一性
 キスと指貫―心の中の世界と、意識と意識の交わりの空間
 全ての個物がその中に全体を含むホログラム構造
 映画の主人公はウェンディ―基本軸の変換による可能記述


予約不要、好きな時間に入室し、自由に退席して構いません。
研究中のファンタシー文学やサブカルチャーについての資料をお配りします。
同一性問題で関りのあるフィギュア作品を持ち込んで、観賞して頂きます。
20:28:13 | antifantasy2 | No comments | TrackBacks