Complete text -- "英文学科公開講座主題2 「ネバーランド」"

02 September

英文学科公開講座主題2 「ネバーランド」

9月9日に開催の英文学科公開講座の主題解説を致します。

ファンタシーと仮構(フィクション)の位相
ー“ピーター・パン”を題材にした3つの映画とメタフィクション

2 “ネバーランド”
 映画“ネバーランド”(Finding Neverland、2005年、マーク・フォースター監督)に描かれているのは“ピーター・パン”のお話の世界ではなく、この物語を書き上げた劇作家・小説家のジェイムズ・バリと、“ピーター・パン”でお馴染のキャラクターであるピーターやロスト・ボーイズ達のモデルとなった、デイビーズ家の少年達との関わりである。妻との不和という不遇な家庭生活を送る作者と、父親を病気で亡くして満たされない思いを抱く少年達と、そして作者の心を強く捉えた不思議な魅力を備えた彼等の母親をめぐるドラマは、事実に基づくものであることが知られている。この映画は“実話”を独自の視点から再構成したものであり、“ピーター・パン”のお話や映画“フック”のような、あからさまな仮構ではない。
 しかし映像表現に基づく“映画”として提示されたこの作品世界は、これらの物語とは別の種類のもう一つの仮構世界であることは間違いない。作中に描かれているエピソード自体はあくまでも現実的な人々の送る生活と一般的な人々の示すあるがままの情動であり、“ファンタシー”の特質とされる“あり得ない状況”は語られてはいないかのように見える。しかし、病に伏すデイビーズ夫人を喜ばせるために、バリが劇場で見事な成功を収めた“ピーター・パン”を彼女の館の中で上演してみせる場面では、この映画は映像表現ならではの、特有の仮構的状況を形成することになる。劇中劇として展開する「ピーター・パン」のお話の世界と、これを仮構として鑑賞しつつある「ネバーランド」という映画の登場人物の世界との融合が、視覚表現として果たされているからである。このような場面を文部省的に固着した“デイビーズ夫人のイマジネーションの中に映った世界”などとして理解する筋悪な解釈は、あらかじめ除外しておこう。映画のように視覚表現を介して提示される仮構世界では、より即物的に観客の思念にその場面の“実体性”が存在を主張してくる筈だからである。姑息な観念的翻訳を排して目に映る通りの仮構的“事実”の存在をあるがままに認めるならば、現実(リアリティ)という制約の外にある、より広くて深い“メタ・リアリティ”の世界を垣間見ることも可能なのである。“フィクション”という言葉の意義を再検証してみることの必要性はそこにある。限界ある感官と視界を超えて、現実世界と関わりを持つことの決してない別の可能世界の存在や、永遠性の存在である神や無限の実体としての宇宙の属性をも心のうちに思念する、“考える葦”としての人間の意識の力は、既存の観念の束縛を離れた時その潜在的能力をより力強く発揮することだろう。

00:08:22 | antifantasy2 | | TrackBacks
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