Complete text -- "“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理"

19 October

“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理


 通例“ファンタシー”という言葉で呼ばれている文学ジャンルの勃興が、歴史的位相においては、世界認識のあり方におけるニュートン力学的一元化モデルに対する思想的反発を契機に生成した、いわゆる“反啓蒙主義”(anti-enlightenment tradition)の影響下に19世紀から20世紀初頭にかけて展開した、近代ヨーロッパに特有の思想的風潮を反映した文化現象の具現化の一つであったことに間違いはないだろう。だから文化的位相においては、西洋文明が近代において経験した科学思想的世界観の劇的な変転を直截に反映した、心理的一局相として同定し得るものでもある。しかし、その内奥にある潜在的可能性としての内在的本性においては、むしろ時代感覚を越えた人類の文化現象における普遍的な思考と、さらに宇宙内部にある本源的な意味性自体のシステム理論的構造にこそむしろ大きく関わっているものと考えられるのである。それはこの独特の仮構世界記述様式が、微視的な人間的知覚と巨視的な永遠的真実と仮定されるものの間に現出する特有の偏差を浮き彫りにすることにより、宇宙の俯瞰的な展望から得られる世界像の固有の一側面を強く示唆しているものであると判断されるからだ。
 様々な様相を取って顕現したその偏差の構造的捩れ(1)の具体的な類例の一つを、現代に至って我々が経験した特徴的な出来事の中から求めてみることにするならば、光子対の偏光状態の検出実験という事例から導出されることとなった“ベルの定理”を挙げることができるだろう。事象の観測行為が及ぼす物理状態の確定とその局所的因果関係の範囲を超えた作用伝達は、経験則から得られた従来の“科学”の示唆する法則性を逸脱する、新規の実在記述機構の存在を示唆するものであった。そしてこの発見が提示するに至った実在宇宙の保持する根源的な原理機構と思われるものの意外な姿は、全体性の構造性に由来する事象の生成と様態発現における作用の“非局所性”を主張する一方、そこから結果的に導き出される時・空・精神統一理論構築のための有力な仮説の一つとして、「カオス的な“意味の海”としてたゆたう場としての原存在の基盤から、意識が能動的に焦点を与えることによって引き出される結果として生起する“存在”あるいは“現象”」という事象発現メカニズムに基づく、新たな宇宙レベルでの世界に対する総括的意味性賦与の可能性を示唆するものでもあったのである。つまり、意識の主体による観測/知覚/記述等の行為が、生成/創出/理解等の主体的関与を行うことによって始めて、存在/現象/属性等の従来客観的事象性とされてきたものを現出せしめるという一般公式を導入することにより、あらゆる概念要素を相補的な行列的重ね合わせとして再変換し、相異なる範疇に属する概念の全てを仮定された単一の基礎概念の相互作用的表象として理解/記述することさえもが可能とされることとなったのである。当然のことながらそこには、新たな統合的世界解釈を進めることを可能にするさらなる場の概念の拡張の模索の必要性が示唆されねばならないこととなる。だからこそ、例えばルソー以来のロマン主義の延長線上にあると思われるこの仮説の主張に従うことにより、しばしばファンタシー世界の欠かすことのできない構成要素となっている神霊や魔術等の及ぼす効果とされるいわゆる超常現象や、あるいは個別の意識体のうちに潜む予知や精神感応等のパラサイコロジーという言葉で理解されている諸現象も、意味構築を行う概念の基礎単位として機能する仮想粒子(ドーキンスの“meme”=模倣子に倣うならば、“seme”=意味素子とでも呼ぶことができよう)がゆらぎのなかで生成消滅を繰り返す相互作用という形で異次元の情報の海から引き出されてくる次元的捩れの位相の各々として、光や重力の場合と同様に物理学的あるいは形而上学的に理解することが可能ともされることとなるのだ。かつて古代ギリシアで、意味の複合体として存在するコスモスとしての世界を構築する基幹的意味単位である各々の抽象概念が、それぞれ神格としての別の位相を保持していなければならなかったように、自然(nature)の背後には全体性の意味の階梯と関係性を保障する超自然的(supernatural)作用因がシステム理論的に必要とされることになるのである。そして存在の基底にあるとされる原理的意味性の確証という、ここに得られた存在論/認識論的解釈を我々のアンチ・ファンタシーに関する論考に適用するならば、意味の複合連鎖として最大限の信仰を反映した懐疑を描いた『ピーターとウェンディ』(Peter and Wendy, 1911)という仮構の発現に対して、『最後のユニコーン』(The Last Unicorn, 1968 )では最大限の懐疑を反映した一つの信仰の形が描かれている仮構が現出しているという潜在的意味の反転的連鎖が成立しており、これら双方が極めて緊密な相補的同位体の相を成しているという仮構世界の中のシステム構造性を反映した、ある種のペルソナ(3)の反転相をも具現しているという、新たな属性同定上の函数的意味単位の存在もまた浮上してくることと思われる。例えばツヴェタン・トドロフの与えたファンタシー(the fantastic)の定義である“科学的世界観を保持する意識の主体がその理解の範囲を超えた現象を眼前にした際に覚える精神の揺らぎ”を反映する仮構が『ピーターとウェンディ』においてアイロニカルな反転現象を生起せしめているとするならば、トドロフが対照的な定義を与えながらも敢えて掘り下げた論議の対象とすることの無かったとされる“マーベラス”(the marvelous)においてアイロニカルな反転現象が生起したことを確証するための事例に適合する模範的実例として、『最後のユニコーン』の保持する位相を割り出すことも出来そうだからである。そこでは現象として存在する意味の複合体である現実と、現象としては存在していない意味の複合体である仮構と、さらに現象として決して存在し得ない意味の複合単位であるまた別種の不可能世界たる仮構のそれぞれが、相補的な関係性を示して相互作用を行いつつある可能態の意味連関の場が、4次元時空の場をさらに拡張して新たに想定されることとなるのだ
 そのような思考界面においては、量子力学と共に20世紀初頭に鮮烈に展開した新規の集合論と、跳躍的に拡張した新傾向の論理学の磁場の及ぼしたシステム理論的発想が、その直接の影響のもとに『ピーターとウェンディ』や『最後のユニコーン』のような脱伝統論理的に極めて高度な観念操作を反映した形而上的仮構を産み出したと理解されなければならない理由は全く認められない。むしろ、意味の破壊作用をもたらすパラドクスも、仮構と現実と自然と超自然の従来の定義を抜本的に覆す新理念として登場したアクチュアリズ厶も、そしてファンタシーとリアリズムの双方を解体して包括する秘められた潜在力を示唆するアンチ・ファンタシーという指標自体も、それぞれが“仮構”という多義的な基質の反映する豊かな内実の表層に浮上した、共軛的位相の各々に過ぎないものであったことを過たずに理解しておきさえすればよいことになるのである。こうして“仮構”が本来有していた筈の多義的な反射的指示機能と、“現実”という名で従来理解されてきた本源的には限界ある存在論的仮説に対する関係性において、“アクチュアリティ”という発想との間に構築することが可能な微妙な相関性あるいは対称性の一部を、改めて効果的に記述する視点が実際に提示されることとなった。つまり、「現実的な存在ではない、想像によって捏造された疑似存在」という一般的定義の許に認識されている“仮構”という言葉で呼ばれてきた、論理的にははなはだ意味措定の困難な曖昧な概念に対応すべき相関対象を、別次元の観念空間上に見事に投影することに大きく寄与したのが、20世紀初頭以降急速に発展したパラドクスの論理学やアクチュアリズ厶の文学ジャンル等々にその成果が代表される、これらの相対性理論と量子力学的発想に裏打ちされた柔軟でしかも堅固なシステム理論だったのである。
 このように、一方で実在論の角度から掘り下げられた量子理論と両輪の関係をなすものとして、もう一方では現象論の角度から掘り下げられた目覚ましい論理学の革新とシステム理論の拡充があったお蔭で、仮構の保持するいわばプレローマ的特質を再検証する体勢が改めて整ってきたのである。しかしその現実・仮構連続体の探索を企図する傾向の端緒もまた、実際には歴史を遠く遡るものであった筈であるし、相対性理論誕生の直前の19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパの文化状況を射程に入れるならば、神智学(theosophy)の模索した霊性理論や数理論理学者ルイス・キャロルの奇想的著作等にも、既に明らかに見て取ることができるものなのだ。妖精や精霊などの概念が宇宙論と心理学に深く関わる仮構空間における相対物として、これらの形而上的思念の直接の産物であったことは既によく知られている事実である。例えばキャロルの『シルヴィーとブルーノ』(Sylvie and Bruno, 1889)において描かれた、個人の意識構造内部という精神の界面において発現する妖精界と人間界という二つの物理空間次元の重ねあわせを記述することを目論む発想は、数理論理学者らしい著者キャロルの思考の純粋に思弁的な特性を反映しているのみならず、ファンタシー文学を生み出す思想的土壌となったロマン主義思想の根幹にある、形而下的(ニュートン力学的)偏心性に激烈に反撥する先鋭な形而上学指向的傾向を如実に示すものなのでもあった。明らかに量子理論とアクチュアリズムの誕生以前に、知性体の想念の及ぼす現象世界への霊的影響と意識の保持する特有の具現化作用は、宇宙解式の包括的システム理論としての意義性を明確に自覚して思考過程の中に導入されていた。そして一切の現象世界的逡巡を放棄してこのような極限的抽象思考に全てを委ねるならば、古典力学の完成以降にこれまでに理性と科学によって確証されてきたような観測と知覚によってのみならず、思念や情念を通じて非局所的に全体性の相互作用を行っている、さらなる未知の意味界面の存在が、むしろ“仮構”という包括的意味性の場の中にこそ新たに開拓されねばならないことになるのである。さらにまた、精神作用の範疇を越えた別種の観念空間においても同等の意味構築の可能性が示唆されることが認められることにより、妄想と奇想の産物である明らかな矛盾を含んだ荒唐無稽な仮構の占める一つの可能的実在世界としての意義性さえもが、その原理的不能性という特質においてこそ改めて評価されねばならなくもなるに違いない。(2)
 『最後のユニコーン』の終局近くの場面で、遂に宇宙の極限の真実を見極める力を有する本物の魔法使いとなったシュメンドリックが語る以下の科白は、このような意味で彼が遂に存在と意識と非存在と仮構の間にある、貫事象平面的真実の超論理的関連を把握し得たことを示しているのである。ハガード王の後を継いで不毛の王国を統べる王となったリアに、再び永遠性の存在属性を回復したユニコーンの記憶と想念と思われるものについて語る言葉である。

As for you and your heart and the things you said and didn’t say, she will remember them all when men are fairy tales in books written by rabbits.
p. 207

陛下と陛下の心と陛下のおっしゃったこと、あるいはおっしゃらなかったことについては、ユニコーンはそのすべてを決して忘れることはありますまい。人間達の世界が兎達によって書かれたお伽話となった時でさえも。

ここで語られているような永遠性の存在の思念によって把握された真実の位相である函数的関係性においては、事象として発現したことと事実たり得なかった潜在的可能性の差異が全く認められないこととなる。同様に例えば、現実─仮構─不可能態統合次元においては、“人格の同等性”あるいは“存在の個別性”さえもが、致死性の人間知性によって信じられていたものとは全く異なった図式において語られなければならないことになるのは言うまでも無い。これと同等の彼岸的思考による、意識の主体である“私”性の示し得る位相の記述の興味深い一つの例が、やはり思弁的な霊性の探求者であったジョージ・マクドナルドのファンタシー『ファンタステス』(Phantastes, 1858)において既に語られていたのであった。複数の仮構領域にまで通底して主張し得る貫世界的“私”性の存立可能性の提示が、以下のパッセージにおいて鮮烈になされているからである。全てが不可分である無意識の魂の領域であるフェアリーランドに赴いた主人公アノドスによって、知と意識と経験の統合体である“フェアリー・パレス”の図書館で発見された、霊性の位相発現の一側面の凝縮的投影である“フェアリー・ブック”に記されていた仮構のペルソナ的内実を語る一節である。

One story I will try to reproduce. But, alas! it is like trying to reconstruct a forest out of broken branches and withered leaves. In the fairy book, everything was just as it should be, though whether in words or something else, I cannot tell. It glowed and flashed the thoughts upon the soul, with such a power that the medium disappeared from the consciousness, and it was occupied only with the things themselves. My representation of it must resemble a translation from a rich and powerful language, capable of embodying the thoughts of a splendidly developed people, into the meagre and half-articulate speech of a savage tribe. Of course, while I read it, I was Cosmo, and his history was mine. Yet, all the time, I seemed to have a kind of double consciousness, and the story a double meaning. Sometimes it seemed only to represent a simple story of ordinary life, perhaps almost of universal life; wherein two souls, loving each other and longing to come nearer, do, after all, but behold each other as in a glass darkly.

お話の一つをここに再現してみることにしよう。けれども、残念ながら、それを行うことは、折り取られた枝と枯れ葉をもとにして、森全体を復元しようと試みるようなものだという気がする。フェアリー・ブックの中では、それがどのようにしてかは言葉を用いても他の手段を用いてもうまく語ることはできないが、すべてがあるべき姿で描きだされていた。その話は、どのようにしてなされたかを意識することができない程に、そして描かれたもの以外のことを考えることができない程に力強く、魂の上に想いを閃かせたのである。ここで私が語るその話の内容は、豊かで力強い素晴らしい知性を備えた人々の思考を実体化させることのできる言語から、未開の人々のたどたどしい粗末な言語に翻訳を行ったようなものに近い。勿論私がこの話を読み進めている時は、私は主人公のコスモであり、彼の経験は私のものであった。けれども読みつつあるその間、私の意識は二重のものとなり、その話は二重の意味を備えているように思えたのであった。時にはこの話はありふれた生活のありふれた出来事を語っているように思えた。そこでは二つの魂が互いに愛の思いを抱き、寄り添いたいと願いながら、結局はほの暗い鏡の中でお互いの姿を見つめているだけなのだった。



時空座標の一点として規定される指示対象としての一意的な個別性を越えた、普遍性の相における至高の次元の概念に基づいた意識の主体としての“私性”たるものが、量子理論的多世界解釈における貫世界的同一性のみならず、むしろ現実と複数の仮構世界をこそ通貫して精神作用の中に存在し得る、ある種の奇跡的可能性としてここに語られていることが分かる。そして時間の同時性や空間座標の一意性が制約的な意味を持たなくなった時には、“私”という概念が日常的に含意していた“単一性”の意味合いが大きな修正を受けることとなり、未だ見知らぬ“私”の深層と裏面が世界の枠を超えて様々に網羅的に発見されていかねばならないこととなるのである。
 この理念に従えば、人格性あるいは霊性すなわち意識体の示す様相である“ペルソナ”は、個体としての座標上の個別性においてのみ一個人あるいは神格として規定されるものでは決してなく、経験や記憶や存在物としての形成・現出という因果関係性の諸制約をも超えた条件下で、その特殊な本質的同一性を語ることが許されるべき崇高な概念ともなり得るのである。つまり複数の異なった座標あるいは仮想的な存在空間である“象限”に分散して一つの事象の姿が多面的に記述されることが可能であるように、あるいは無数の行列のセルの束として事物の属性あるいは存在性自身が展開的に分散して表記され得るように、“私”やその反転的記述である私を取り巻く“他”あるいは“皆”等の概念も、他の諸要素と緊密に結ばれた筈の事象的因果関係性をも離れて、線的な連続性を持つ必要さえもない波動的あるいは行列的な純観念的記号として記述することが可能となるのである。
 丁度、超ひも理論の完成において採用が模索された大統一理論である“Mセオリー”(4)の場合のように、異なる別種の様式に従って構築された独立理論だと思われていた、五つに分岐してしまった“統一理論”の構想の各々が、改めて11次元からなる立体空間を想定することにより、そのいずれもが一つの完成形である理論の保持する多面的な様相の局所的な投影的現れに過ぎないものであることが確証され、異質のものとされていた存在のより高次元における根幹的同一性が認められるに至った例と同様の、ペルソナ変換的な統一システム理論の存在がここに想定されることになる。(5)とするならば、全体性の宇宙像の探索を企図した際に未知の領域として新たに開拓されるべき科学的次元が、むしろ“仮構”と“私”の内部にこそ潜んでいるのである。そこでは未だ自覚せぬ“私”のさらに様々の秘匿された実相が、全体性との関連の中で改めて発見されねばならないこととなるだろうからである。だからこそ、『ファンタステス』の一節において“フェアリーランド”という仮想世界の中の“フェアリー・ブック”という言葉を用いて語られていた別種の仮構世界が、マクドナルドがドイツ・ロマン派に倣って追求した意識の中の異世界であるフェアリーランドと、これを知覚・発現・記述し得る能力・感覚である“フェアリー”という心霊的概念と、そして“フィクション”という言葉の意味の次元界面としての玄妙な特質を見事に語っていると共に、ピーター・S・ビーグルの傑作『最後のユニコーン』という一つのフィクションの意識内部に占める全体性の宇宙の霊妙な位格的内実をも、実は雄弁に語るものとなっているのである。
 これらの思念の全てを包含する潜在力を自覚した仮構の記述とは、ユングがパラケルススの錬金術に関する世界心理学的考察において展開してみせたような、全体性の機構を意識した魔術的世界修復機構を企図する精神の調整理念に従うならば、現象性への様相勾配を増加して一意性への縮退を加速度的に進行しつつある世界の意味性崩壊の過程に対して、そのエントロピー増大則にも似た慣性力の減速を企てようとする、意識内部/宇宙総体機構の保持する魔的な衝動が及ぼす霊的な自律調整機構としての、反射的な力学的作用因を無視することができなくなってくることだろう。あるいはまたエピクロスの唱えた“クリナメン”とある意味で等質の潜勢力とも理解することができるこの宇宙創世場そのものに内在的な誘発力は、ポーが形而上詩「ユリイカ」において示していたように、“引力”という物質面に作用する統合的な原理に対して相補的に機能する、“斥力”という精神面に及ぼされる拮抗作用の存在のシステム的意義性に対する反射的自覚として見做され得るものでもあるだろう。
 こうして相対性理論と量子力学の解式によって波動と粒子、あるいは質量とエネルギーが、相補的にその様相を顕現する共軛的な様相として、何らかの連続体に帰属する概念の一形態に過ぎないことが認められるに至ったように、宇宙の基体となるものが示し得る多義的な様相群のまたそれぞれの影と本体としての個々の様相と、これらを統合して記述する包括的な高次システム上の意義性概念が、フィクション世界をも包摂した場の理論の中に切実に開拓されねばならないこととなるのである。そこでは当然ながら“エネルギー”と“質量”の場合と同様に、 “意味”と“実体”という概念が対称的に相補的様相を保持する連続体である可能性が真摯に模索されねばならないこととなり、その結果が時には、アーヴィン・ラズロ(Ervin Laszlo)が“アカシック・フィールド”(Akashic field)(6)という、“意味”からなる別次元を隠し持つ宇宙の統合連続体としての機構を前提とした仮説を通して提示したような形で導かれるのも、人間知性の裡に得られる宇宙像の論理的あるいは形而上学的帰結としてはむしろごく自然なことだろう。考え得る限りの全ての意味性次元を拡張した宇宙の全体像は、想念と現象、さらにまた仮構と現実というそれぞれの表現形を選択的に取り得る観念の統合連続体としてこそ、その存立可能性が模索されねばならないこととなるからである。

22:08:11 | antifantasy2 | | TrackBacks
Comments
コメントがありません
Add Comments
:

:

トラックバック