Complete text -- "“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理 3"

19 October

“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理 3


 つまり、極限の真実追求を旨とする科学者/思想家にとっては、意味空間の中で多元的に分岐して個々の内実を主張し得る“函数”としての概念/現象の全体像を正しく把握して論考に組み入れるためには、“函数に関する函数”としてのメタ数理理論化の手順が不可欠であり、常に構想し得る限りの種々の座標界面を構築し得る基体となるべき、従来の理性の及ぶ範囲であった限界ある次元を跳躍した、多元空間/多元概念座標における関係性の函数的表現を柔軟に行う不断の行為と思索こそが、自身の生の哲学として切実に模索されねばならなかったのである。
 永遠的真実の探求を企図する精神においては、カオスの内部に押し込められた、信仰の力によってかろうじて神々の支配の領域として確保された、閉じられた城塞のような孤絶したコスモスを生きることに満足するのではなく、むしろカオスを基盤に捩れと捻りを軸に伸展する全方位的存在性の展開を許容する閉塞を知らない世界構築理論が新たに構想され、考え得る限りの全てを含む本来の意味での普遍性の宇宙に意識を開放せねばならないこととなる。その結果例えば、歴史哲学を実存哲学へと変換し、あるいは楽曲を絵画へと翻訳することにより、乖離した次元界面における潜伏した同一性や共通性もしくは対照性を目ざとく読み取ることによって、現象世界における意味の断絶や矛盾を克服することが始めて可能となるのである。意味の関係性を切り離した質点あるいは波動として量化された数値のみに着目して、力学あるいは波動関数としての数式的構造性を抽出することばかりで終わりとするのではなく、むしろ意識体の保持する相関した主観的意味単位である感覚性にこそ焦点を当てて、それらの相互変換作用を含めた網羅的な意味の関係性を記述することを企図した場合には、時として視覚が聴覚に、あるいはまた触覚等の別種の感覚に置き換えられて語られ得るように、“クオリア”(8)の相互変換性がむしろ意図的に開拓され、記述されねばならないこととなるからである。先鋭的なロマン派の詩人エドガー・アラン・ポーがその詩作の上で印象的に行ってみせたような視覚と聴覚等の感覚の交錯の記述は、単なる斬新な表現技法としてのレトリックの模索の範疇に止まらず、全体性の宇宙の原理的な記述と普遍相における意味の把握にこそ係わる、思想上の枢要な基幹原理を示すものとなっていたのである。こうして全ての不和と矛盾と差異を言わば意味の函数化を介して調和させることのできるアルゴリズムを、数学的演算処理のみならず、その処方そのものに適用することによって、実際の現象物体(マテリア)自身の奇跡的な変身(メタモルフォシス)と、そればかりでなくプレローマ的場の根幹的意味性そのものの変成を具現化する手立てが発見され得るのである。そのような意味で人格や個別性の裏面に横たわる同一性や対称性が再発見された時、改めて『春と修羅』の序詩の「すべてがわたくしの中のみんなであるように/みんなのおのおののなかのすべてですから」の一節が示唆する、量子論理的/仏教理念的な、宇宙理解/世界救済の可能性も垣間見得てくることだろう。
 六道の発想の根幹にあったような、“世界の中の私”と“私の中の世界”という反転的描像が共軛的に成り立ち得るような精神界面においてこそ、真に創造的な仮構の記述は成立するのである。このような意味で常に切実な思惟を巡らせ、見て語り全ての事物に霊的に関与し、一つの個人の生を深く生きることによって全ての生と意味を意義づけ、大乗の教えを具現化して他者あるいは“みんな”の救済をも実際に企てることが可能にもなるのである。時・空・精神連続体の全体性を構想する場合に理解や把握の基礎単位を形成すべき“意味”とは、物質主義的宇宙観を前提としていた科学が仮定していたような、属性や特質として質量や現象の中に帰属するものとして仮定された、量化して読み取られるべき仮象情報としてあるのでは決してなかった。宇宙の根源的実質単位として存在すべき“意味”とは、“質量”や“エネルギー”や“波動”や“場”を生成する原形質として本源的に全てに先立って存在すると同時に、むしろこれらの現象を観測し記述する意識の主体とそれらの行為自身との相互作用という描像自身と等価的な定義を保持するものとして、その他のあらゆる個々と全体との関係性を常に意義性の階梯と機縁を増幅しながらさらに新たな固有の意味としてその流動的な内実を賦与されつつ、総合的に展開していくべき基礎概念だったのである。記述者からは独立して厳然としてある客観的な事象の存在という仮定と、機械論的過程に従った模擬実験による科学的真実の普遍的物理法則としての確証という、“ノヴェル”が担っていた幻想により損なわれてしまった仮構のエネルギーを再び解放することに成功したのが、“心象スケッチ”と宮澤賢治が名付けた、文学的表現技法の枠を超えた芸術的生のあり方であった。
 “意味”の中に見いだされるべき、これによって全ての概念が等価的に変換されるべき“意味を形成する意味”とは、常に能動的にあるいは恣意的に構築され、個々の意識の主体によって意図的に賦与され得るものでもあったからこそ、現象性の中の些末な事象への任意的関与とその恣意的記述そのものが、賢治にとっては意味の複合的連鎖として紛れも無く世界の総体としての真言と共振し、人にとっての“真実の言葉”となり得ていた訳なのであった。この優れて祭礼的/祝祭的/祈祷的実例を、『春と修羅』に収録された他のいくつもの心象スケッチの中に豊富に見いだすことができるのである。そのうちでも最も特徴的な成功例の一つとして挙げ得る作品が、「アンネリダタンツェーリン」であろう。

蠕虫舞手(アンネリダタンツエーリン)

(えゝ 水ゾルですよ
  おぼろな寒天(アガア)の液ですよ)
日は黄金(きん)の薔薇
赤いちひさな蠕虫(ぜんちゆう)が
水とひかりをからだにまとひ
ひとりでをどりをやつてゐる
(えゝ 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア) ことにもアラベスクの飾り文字)
羽むしの死骸
いちゐのかれ葉
真珠の泡に
ちぎれたこけの花軸など
 (ナチラナトラのひいさまは
  いまみづ底のみかげのうへに
  黄いろなかげとおふたりで
  せつかくをどつてゐられます
  いゝえ けれども すぐでせう
  まもなく浮いておいででせう)
赤い蠕虫舞手(アンネリダタンツエーリン)は
とがつた二つの耳をもち
燐光珊瑚の環節に
正しく飾る真珠のぼたん
くるりくるりと廻つてゐます
(えゝ 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア) ことにもアラベスクの飾り文字)
背中きらきら燦(かがや)いて
ちからいつぱいまはりはするが
真珠もじつはまがひもの
ガラスどころか空気だま
 (いゝえ それでも
  エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字)
水晶体や鞏膜(きようまく)の
オペラグラスにのぞかれて
をどつてゐるといはれても
真珠の泡を苦にするのなら
おまへもさつぱりらくぢやない
   それに日が雲に入つたし
   わたしは石に座つてしびれが切れたし
   水底の黒い木片は毛虫か海鼠(なまこ)のやうだしさ
   それに第一おまへのかたちは見えないし
   ほんとに溶けてしまつたのやら
それともみんなはじめから
おぼろに青い夢だやら
 (いゝえ あすこにおいでです おいでです
  ひいさま いらつしやいます
  8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア) ことにもアラベスクの飾り文字)
ふん 水はおぼろで
ひかりは惑ひ
虫は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
    ことにもアラベスクの飾り文字かい
    ハツハツハ
  (はい まつたくそれにちがひません
    エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
    ことにもアラベスクの飾り文字)

『春と修羅』に収められたこの心象スケッチの短詩においては、詩を詠む作者の姿自身が反転的に作品の中に描き込まれている。その作者は手水鉢の底に沈んでうごめいている蠕虫という、現象世界の具現する小さな一側面に目を留め、これを観察・記録するという体を装いながら、実は神話と科学と音楽を綯い交ぜにしたとりとめのない夢想を心中に展開しているのである。一見したところ伝統的な “叙情詩”と呼ばれてきたものと同等の道具立てに基づいた、小さな内面世界を描いた作品空間がここにはある。しかし“心象スケッチ”としてのこの作品の成立基盤は、一般の叙情詩の類型に従って、作者個人の孤独や哀れの想い等を歌った、感情の吐露や想念の告白として成立するものとは、実は全く異なるところに立脚するものなのである。



 他の心象スケッチの作品群と同様に、「アンネリダタンツェーリン」においては、意識の主体たる“私”によって、様々な“見立て”による実に豊かな“連想”が行われていることが分かる。“日は黄金(きん)の薔薇”という鮮烈なフレーズに見られるように、“私”を媒介として放埒極まりない程の概念と表象が、種々の科学的・思想的・文化的知識と共に瞬間的な連想として“連接”され、単に一匹の蠕虫の姿を写実的に描写/形容するばかりでなく、むしろ甚だしく恣意的/主観的に、あるいはむしろ極めて創造的に、あえて自然法則に従うことなく自由に世界の一断面が語られていくのである。そこには様々の神話や生物学や音楽等の専門用語や学術的語彙の各々が、それらの本来保持していた系の内部機構の意味連関の全てを担わされて、さらに他の分野の系の種々の意味連関と跳躍的に連接されることにより、超自然の意味の複合体を活性化させているのである。
 太陽の光の差し込む手水鉢の中の水は、特有の質感を持って見えるらしく、“寒天(アガア)”という一般には菌類の培養素地として用いられる半透明の材質つまり“ゲル”(膠質)を語る言葉で記述されている。この語からの連想としてここではさらに、特有の分子活動を与えるコロイド状の“ゾル”という混雑溶液を呼ぶ言葉が採用されることとなる。コロイドの中で観察される独特の分子の不規則運動は、微細なパスタであるバーミセリにあたかも生命体であるかのような有機的な動作を与えることから、無生物の生命化現象と誤認されて科学界で様々な論争を引き起こしてきたものであった。後に植物学者ロバート・ブラウンによって、水面上に浮かべた花粉から容出した微粒子の示す不規則運動として研究され、“ブラウン氏運動”と名付けられたこの現象は、1905年にアインシュタインによって、コロイド溶液中にもたらされる不規則な分子運動として物理学的に解明されたものであった。ノーベル賞受賞論文である「光量子論」と「特殊相対性理論」に並んでこの年に提示された「ブラウン氏運動の理論」は、宇宙の現象としての具現化過程を条件づける素粒子の量子的ゆらぎの発見に先行して、実は根本的宇宙認識のニュートンモデルからの修正を迫る重大な科学的事実の一つなのであった。20世紀初めの科学思想の世界において、自然の中にある根幹的意義性を再検証する上で殊に注目の的となっていたのが、これらの用語の示唆する内実だったのである。
 しかしこれらの純然たる科学史上の事実と平行して、賢治の想念の中には、踊りと音楽で構成された一つのフィクションである演劇的な枠組みを持った寓話世界が、同時に展開しているのである。手水鉢の水底で身をくねらす蠕虫の動きは、何故か“タンツェーリン”(“舞手”、英語ならば“dancer”に相当する)というドイツ語を用いて語られている。あるいはホフマン原作、チャイコフスキー翻案の『くるみ割り人形』のようなバレー組曲作品か、もしくはアンデルセンの童話作品の世界でも頭に想い描いているのであろうか、正体不明の侍従のような人物によって “ナチラナトラのひいさま”というこれまた意味不明の異国的な名で呼ばれることとなっているのが、この心象スケッチの中で記述の対象とされている謎めいた蠕虫なのである。そしてこれらの取りとめのない夢想を展開する、一個の観察者であり記述者である“私”は、“水晶体や鞏膜”という観測実験機器のアパレイタスを模して解剖学的に突き放したように客観的に語られ、その“私”の幻想自体が作品自身の中で明らかに否定されもしている。作者の想念としてある幻想と、その幻想を繰り広げつつある作者自身が双方向的にその姿を投影しつつある場がそこに展開している。このように語られた観測者/記述者の姿とその脈絡の無い幻想は、オルテガの語った“窓ガラス”とも、ハムレットの語った“自然を映し出す鏡”とも異なる、全く別種の定義に基づく機器であり“存在”であり“現象”なのである。“意味”として物理的広がりを持たず、従って他のいかなる同一カテゴリーのものにも含まれることはなく、全体性の宇宙の意味の一様相として示される“モナド”にも似た意識の自覚として、“私”というペルソナが想定されることとなる。
 しかし取りわけこの詩の独特の成立条件をなすものとして印象的なのが、水底で蠢く蠕虫の姿を“エイト ガムマア イー スイツクス アルフア”という独特の言葉で描写している部分であろう。そこには身をくねらす蠕虫のとる様々の姿形が、ギリシア文字や英語の文字や数学の記号になぞらえられて、“8 γ e 6 α”と見事な視覚的形象を与えられて表現されている一方、これらの文字・記号の本来の読みに従って、独特の音楽的旋律まで奏でることとなっているのである。身をくねらす孑孑をあえて学名を用いて“アンネリダ”と呼び、ドイツ語のタンツェーリンと強引に繋げて“アンネリダタンツェーリン”という独特の音韻効果を備えた語を用いて呼び替える、斬新な音楽的見立てと連動する同種の創造的感覚がここにある。様々な見立てと観念の連接と新しい意味の付加を行う“私”という“現象”が、世界の中で力学的因果関係に従って機械論的にもたらされた事象の一つであるばかりでなく、同時に遡及的に歴史と出来事の総体に対する意味連関を再構築する、能動的な作用をも及ぼす機能を果たすこととなっているのである。
 こうして“心象スケッチ”においては、“連想”という精神活動と“言及”という実際の行動が、時空を超えた意味と精神の連続体である世界そのものに対する有機的な注釈賦与となる。世界から受動的に意味を読み取り、そこに内包された客観的真実を解明するばかりでなく、同時に世界の根源的原理の意味の豊かさを、主体的に附託することができるのである。何故ならば局所的な作用による因果関係に頼ることのない、時間軸の方向性を跳躍した全方位的な関係性の構築が、思念と夢想の裡においてこそ可能となり、観測と記述による様相波動の収束が直裁に機縁と因縁を構築することにより、全一なる宇宙そのものの意味性賦与に貢献しているからである。つまり、参照して語る注釈賦与の行為が、紛れもなく根源的意味連関の構築として始原的な創世行為と等価のものであり得ることとなるのである。仮構とその創り手の生きる現実が分ち難く融合した和歌の世界の存在論的位相と次元軸を共有する、見事な脱現実的実存的生のあり方がここに成就されている。社会による功績の認知や既存の思想や組織の判断基準による功利的評価などとは全く異なるものを射程に置いた、これらの無意識の深奥にある一種音楽的な霊的活動を語る想念こそが、賢治が“真の言葉”と呼んだものであった。このようにして思念の中で世界の複合的意味性の位相変換と再生産を行い、プレローマ的原形質における可能態の醸成と、現象界におけるメタモルフォシスの錬成を成し遂げることが実際に可能となるのである。
 賢治が“心象スケッチ”を語るものとして演じた、和歌における“生活実感”を“歌に詠む”、あるいは叙情詩における“心情の吐露”の“記述”という体を装った実は巧妙な捻りのある“仮構”でもあり、あるいは徹頭徹尾突き抜けて純真無垢な即興的詠唱行為でもある記述は、古典力学的世界観に基づく“リアリズム”と呼ばれるいびつな仮構とは、全く対照的な原理に基づくものだったのである。実は賢治という“現象”は“心象スケッチ”の記述/発話行為において、『最後のユニコーン』の第一章に登場していたあの饒舌な蝶のように、とりとめのない連想と奇想を一人つぶやく極楽蜻蛉を振る舞っていたのであった。そしてこのような疲れを知らぬ道化を演じてみせる天真爛漫な想念と、全てに対する興味と関心に溢れた比類ない上機嫌の精神活動においてこそ、浅薄な限りある実証主義的科学の理解にしか基づかない断絶の精神世界を根底から解体して鮮やかな再構築を成し遂げることが可能となり、世界に対する真の意味性賦与を導出する健全な精神の回復が見込まれることとなる。

22:13:47 | antifantasy2 | | TrackBacks
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