Complete text -- "“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理 5"

19 October

“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理 5




(1)
 何故かこの宇宙には人知の限界を超えた“謎”と呼ばれる現象あるいは存在が多々現出するが、これらの多くが理性の依存する演算アルゴリズムを逸脱する“捩れ”の構造体をとっていることが多いのは、殊の外興味深い事実であると思われる。平面的捩れの構造であるメビウスの輪や立体的捩れの構造であるクラインの壷があるように、その他様々の多次元的捩れの位相幾何学的構造や、意味連関におけるシステム的捩れとして重複的・複合的捩れの構造の存在が発見されることが予想されるだろう。ブラックホールとホワイトホールというそれぞれの対となる現象を特有の捩れ構造で連接すると思われるワームホールや、あるいはフィクションという異次元世界のお話の中のお話や、さらにまた現実とフィクションの間の実は見事に捩れた関係性等、多義的な意味の場の反転的連鎖が、謎と神秘を介して究極の普遍原理の存在を示唆しているかのようでもある。これらの捩れの構造の中でも殊に目新しい例として指摘できるのが、超ひも理論の物理学者ブライアン・グリーン(Brian Greene)の示唆した“ブラックホールの成長の果ての一量子への変転” という、宇宙の存在性発現過程における捻転的循環を主張する理論である。CF. Brian Greene: The Fabric of the Cosmos (2005)

(2)
 物質とエネルギーが、あるいは粒子と波動が、その位相を相互変換して記述され、もしくは重ね合わせの状態として共軛的に観測され得るように、人格や神格、あるいは個別性と普遍的存在もしくは属性とされてきたものもまた、時空と因果関係の制約を排した原初的意味空間において、新たな位相の裡にその姿が理解されることとなるだろう。その位相の各々、あるいは位相を形成する要素の各々が“ペルソナ”という概念を用いて呼ばれ得ることとなろう。

(3)
 エヴェレットの多世界解釈においては、素粒子の確率分布に対応するだけの膨大な順列組み合わせに従った世界像が現出し、これらが分岐した平行宇宙として無数の他世界を形成していくことが想定されていたが、個々の素粒子を“意味素子”に置き換えて同様の観念操作を適用するならば、様々な錯綜した意味の連関が実体化したさらに無数の平行宇宙が、仮構領域にまで及んで実体化することが予想されるだろう。その典型的な例として、『ピーターとウェンディ』において示唆されていた、ピーターとウェンディの意識の交わりの空間に現出した“キスとドングリが意味交換をした意識世界”や、年少のマイケルが夢想した“フラミンゴの上を礁湖の群れが飛んでいるネヴァランドの姿”等の脱臼した意味連関世界の実体化等が指摘し得る。これらは、“ナンセンス”という制約的な概念を完全に排した条件下の意味空間においてのみ顕現可能な、特有の多元的意味の組み合わせの結果なのである。

(4)
 CF. Brian Greene, The Fabric of the Cosmos, pp. 378-412

(5)
 アインシュタインの相対性理論のもたらした、従来の物理学の範疇を超えた哲学的あるいは形而上学的存在論の再考を促す問題性の影響がここにあらわれている。廣松渉の『相対性理論の哲学』においては、この等価原理的法則性の主張が内包する思想的意義性が、以下のような表現を用いて語られていたのであった。

電車の中央から発した光が前後壁に到達したというのは一個同一の事件であり、「相対性原理」からして、この事件は「互いに等速直線運動している二つの座標系のどちらに則してもその形は相等的」な筈である。「相等的」というのは「共変的」の謂いであって、二つの系に則した観測的事実が相貌的には相異なるとしても、一定の仕方で「変換」してみれば直接的な両定式が同一事態の双貌的描写にはかならないことを含意する。
p. 40

ここで“双貌的描写”として等価原理の本質を捉えたところに廣松の指摘の核心がある。何故ならば、アインシュタインが提示したこの物理学上の重大発見とされる一つの法則性が、むしろ本質的には哲学的な洞察としてこそ理解されねばならないものであることが、以下のような論述を通してより明確に提示されているからである。

古典力学にせよ、日常的対象“確知”にせよ、そこでの“変換的”“統一的”把握は謂わば暫定的なものであり、認識論的には、終局的に“絶対的な”あの“真の”“客観的実在”を想定するかたちになっていた。しかるに、相対性理論の場合には、対自的認識相と対他的認識相とを一定の方法で“変換的”“統一的”に把握した所知態が―暫定的な相対知としてではなく―まさしく認識論的な意味次元における“真の”“客観的事実”として定立されるのである。
p. 69

アインシュタインの構想した物理的事象解釈の理論を哲学の場から統括評価する、「“変換的”、“統一的”把握」の所知態を認めるこの視点こそ、ポスト科学の時代にファンタシーとフィクションを再評価すべき視点の基軸の存在を提起するものとなるのである。

(6)
 アーヴィン・ラズロは、古代サンスクリット語のアカシャ(akasha)という概念に着目して、意識体の記憶や想念等の精神の基底をなす要素を、空間や時間等と同等に拡張し得る物理あるいは超物理次元に展開された意味空間次元として捉えることを提唱している。記憶や情念の保存あるいは生成領域を脳内局在論を適用して理解しようと試みた際に認知科学や脳科学が直面した様々な難点を解消する有力な仮説として、脳の保持するホログラフィー的機能に整合的な解釈を与える統合解式を可能とするものであると考えられるのが、“意味”という独立要素を一つの“次元”として捉えたラズロのアカシャ理論である。
Cf. Ervin Laszlo: Science and the Akashic Field: An Integral Theory of Everything, (2004). Inner Traditions

(7)
 賢治の芸術活動の思想的基盤となったこの理念は、ロマン主義の詩人・思想家であるコールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)の基本理念であった「科学と哲学の合体」を踏襲し、量子理論の知見を加えて新たな角度から再構築したものであろう。

(8)
  “光”を対象とした様々な観測と体験という相互作用の集積として、ニュートンが行ったようなプリズム分光と波長による分類作業から得られた光学理論とは全く異なる、“色性”という別界面から捕捉された理論体系が得られる。人間の知性と感覚を通して認識された色や印象などの“クオリア”と呼ばれる概念についての考察がこれである。ニュートンの分光理論に真っ向から対抗してゲーテが唱えた“色彩論”の中に既にその先鋭的な問題性を窺うことができるだろう。このような関心は、精神の主体である個々と世界を統合的な連続体として有機的に結びつけることを可能にする、しばしば世界からの離反と自分自身との不和に苦しむ人間存在にとっては、世界を受け入れ自分自身を恕することを可能にする、積極的な内面的救済行為と繋がる着眼の可能性を示すものであると考えられるのである。
 “ファンタシー”という精神機能は、スペクトル分光による光学理論に対して情感と対応する色彩を問題にする意識であり、質量点としての粒子に全てを還元しようとする統一解式に対して意味と霊性による世界の異なる解法を提示する意識なのである。

(9)
 Cf. “贖いのパラドクス”、『アンチファンタシーというファンタシー』pp. 34-35


22:16:12 | antifantasy2 | | TrackBacks
Comments

吉田 wrote:

http://milk-bom.net/luffy/

有名だから知ってるかもだが、今、副業でこんな仕事してんの。
仕事終わってから、泊まりに行くだけで5万とか平気で貰えるしなw
昨日も、夜22時から2人の女の子とギュウギュウお風呂で3回も抜かれたよwww
11/15/08 15:57:14
Add Comments
:

:

トラックバック