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23 September

『エルゴ・プラクシー論』

科学とSFと哲学的省察

『エルゴ・プラクシー』における神と人と“自分”(1)



 『エルゴ・プラクシー』(Ergo Proxy)は、衛星放送局WOWWOWで2006年2月25日より8月12日にかけて全23話で放映された、プロダクション“マングローブ”(manglobe)制作のアニメーション映画である。このシリーズ・アニメ作品はガイナックス制作の『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の場合と同様に、小説やマンガ作品等を原作としてアニメ映画化の手順が進められたのではなく、当初からスタジオによるオリジナルの企画として創出され、現代科学の様々の分野の最先端の知見を縦横に駆使して哲学的主題を掘り下げた、日本アニメーション・フィルムの中でも屈指の野心作である。精神現象学や遺伝子情報学や宇宙システム理論等から得られた知の統合的把握を目論み、人間存在と宇宙の存立機構の根底に関わる時代と地域を超えた普遍的な主題性を追求した本作は、アメリカでは英語版がFuse TVで2007年7月より放映され、オーストラリアとカナダでも2007年に放映がなされている。日本における意外なほどの知名度の低さにも関わらず、海外における評価の高さが印象的な本作なのであるが、実はアメリカにおけるこの実験的映像作品に対する反応も、必ずしもこの野心作の実質を正しく把握しているとは思えないふしがある。総じて好意的な批評的対応を勝ち取っているにも関わらず、この作品において最も印象的な意味深いエピソードとそこに用いられた表象と思われるもののいくつかに対して、イメージの現実性からの乖離を問題にした拒否反応とも言える批判的なコメントが与えられているからである。
 実はそのあたりに“サイエンティフィック・アメリカン”を標榜する功利主義の国アメリカの、仮構とアニメ文化に対する理解の限界を見ることができそうにも思える。“科学”の前提のみを受け入れて本作品を純然たるSFとして読解しようとするならば、つまり仮構世界の鑑賞手順として自然法則に基づく因果関係の連鎖を抽出して連続的な擬似現実ストーリーを再構築することを目論むならば、その読解作業は原理的に破綻が避けられないものとなってしまうのである。この極めて思弁的な映像作品においては現代科学から得られた知見が豊富に語られているが、題材の中核をなすのは科学の成果である応用技術ではなく科学の成立基盤に関する原理的思弁であり、主題として表面に取り上げられるのは哲学そのものなのである。その結果、むしろ科学の根幹的前提から決定的に逸脱する形而上的存在原理が追求され、その発想が本作品の演出技法と記述システムの双方に直裁に反映されて、特異な表象を形成することになっているのである。
 壊滅的な環境破壊の結果、人々が居住することが可能なのは外界から隔絶した“ドーム都市”のみになってしまった未来世界を舞台としたこの作品に登場するのは、実は一般の“人間”とは様々な点において異なる別種のもの達なのである。それにも関わらずこのアニメは、人間ならざる者達の有様を通して“人間”という存在の霊的位相の根源を深く考究するものとなっている。自然科学的人間観や宇宙観を根幹的に覆す新たな視点から、物質と精神の全てを統合すべき哲学的理念に基づいた人間存在原理が展開されているからである。物語世界においてストーリーの前面に現れて“人”としての位相を占めて行動するもの達は、実は“創造主”と呼ばれる超越的存在によって人間の存在意義を代替すべく造られた、人工生命体である。しかし彼等を造った造物主である筈の“プラクシー”と呼ばれる神的超越者も、さらに高次の別存在によって造り出された被創造物であることが示唆されている。プラクシーを生み出した“創造主”と呼ばれているものは、現生人類の子孫である未来の種族である可能性が高いが、興味深いことに彼等の有り様の詳細は作品中には明示されていない。この仮構世界において今を生き自身の存在の意義について想いを巡らし、さらに創造行為を手がけあるいは限界ある被創造者としての自身の存在理由を模索し続ける行動の主体となって描かれているものは、この『エルゴ・プラクシー』という仮構作品の根幹的主題を背負う存在プラクシーとその被造物たる“人間”と、さらに“オートレーブ”と呼ばれる機械生命体達の3者である。それにもかかわらずこの物語が人間の心霊的本質を語っていると判断される理由は、信仰とその裏面にある怨嗟の念が自己同一性概念の再検証及び存在理由(レゾン・デートル)の模索という主題と表裏一体となって掘り下げられているからである。本来は人ならざるものであるこれら3者の間の関係が、一方的な支配や従属という形で収束することなく時に双方向的なものとなって変転し、創造者と被創造者の位相を二重三重に折り畳んだ輻輳した様態を通して描かれているのは、従来“神”という概念を用いて理解されていたものと典型的人間存在の根底に実は連続体を構築してある筈の宇宙の原型的基質の示す、“物理的存在局面”と“意識的様相局面”の二つの現象的位相の重ね合わせなのである。そこでは“全体”と“部分”、“自”と“他”という従来の座標概念の包摂関係で捉えれば決して覆すことのできない基本前提であった筈の原理的制約に対するドラスティックな再検証の試みが企図されている。
 『エルゴ・プラクシー』の舞台となるのは、4体のコンピュータ達の協議によって司政方針が決定される未来世界のドーム環境社会である。“ドーム”という閉鎖空間は、一つの支配原理に基づく安定したシステムを保証する領域ではあるが、同時に外部との隔壁を維持することを余儀なくされていることから、空間的・時間的あるいは自律システム的限界性を意味する、厳重な制約を与えられた不自由な系としての存立条件を暗示するものでもある。古代ギリシアの神々が人間達の信仰を支えとして展開していた、整然とした秩序のある理性的把握が可能なロゴス空間は、人々の信仰と神々の権能が失われた時には秩序の崩壊と“カオス”という無秩序の侵蝕を余儀なくされる不安を予知するものでもあった。ギリシア神話の神々は、タイタン族との熾烈な戦いの中でゼウスの開発した新兵器“雷”を武器に彼等の仇敵を駆逐し、かろうじて世界の支配権を手にすることになったのである。苛酷な抗争と必死の創意工夫の結果ギリシアの神々が打ち立てた内部秩序が“コスモス”と呼ばれるものであり、その整然とした安定性は人による信仰を土台として始めて維持されるものであった。当然の事ながら“コスモス外”には、他の神格の勢力圏であるコスモス的秩序とは別種の異次元空間が存在し、その敵対要素の反映はコスモス内においてさえも“カオス”の滲出としてしばしば認知されていたものである。理性の機能の保証された空間とは、実は普遍性の対極とも言うべき甚だしく閉塞的な場だったのである。結局のところ“科学”も、“全能”ならざるもの達の考案した制約ある権能を暫定的に増幅するために創出された、普遍的覚知の一断面に過ぎない不完全なものとして理解されるべきものだろう。現在我々が“科学”という言葉を用いて認識している一見したところ堅固な宇宙把握システムも、その基本的構造性自体は、これらの“ドーム”や“コスモス”などと同等の有限な閉鎖的なものであることを認めざるを得ないのである。無矛盾の完結したシステム構造体として、必然的にその外部に未知のメタ構造が存在するであろうことを否定することが決してできないからである。
 生産と消費という形で定式化することができる人間の経済活動は、資本や労働力などのエネルギーの伝播と流動として観測すれば、ある種の熱力学として数学的演算操作の中に組み込んで、独立した科学的分析の対象とされることとなる。その結果、国家や資本主義体制などの何らかの限界性を備えた自律システムも、そのダイナミズムを図表化して可視化する変換操作を適用することにより、外界から隔絶した様々な種類の“ドーム”という形象でもって理解を図ることができるだろう。軍事的侵略行為と武力的支配によってではなく、文化的な冨と娯楽の播種を有効に活用して平和的属国支配を成し遂げ、“パクス・ロマーナ”という名の魅力的な世界統治を成功させた古代ローマ帝国も、あるいは軍事的圧力を背景に利用した高圧的な通商活動を展開して自由経済という名の下に現代の世界を支配している、イギリスからアメリカを経由して受け継がれてきた産業資本主義体制も、科学的定式化の結果においては全く変わることなくある特有のタイプの“ドーム”の形成作業として理解されることとなる。となれば我々現代人は、古代エジプト人がそうであったと決めつけられていた以上に、ある種のピラミッド造築を半強制的に強いられて生を送っている経済の奴隷であると言わざるを得ない。このアニメーション映画に登場する未来都市“ロムド・シティ”という表象に対しては、ここに例として挙げたような様々な具体的方程式読解作業を当てはめることができるものであるが、さらに同様の図式が科学の暫定的拘束を超出して全方位的に適用された結果、そこに生成される表象は“塔”、“森”、“書房”などのような種々の組織構造体や“クイズ番組”、“遊園地”などの概念構造体もしくは“夢”、“妄想”などの不定形の観念構造体の形を取ることともなるのである。このアニメーション作品の実体は、ニュートン力学にあったような客観的物質存在という基本前提を無条件に受け入れることによって成り立っている、科学の枠組みでのみフィクション世界を現象として捉えようとする“SF”という既存の文芸ジャンルの共通認識の枠を超えたものなのである。この映像作品が目論むのは、純観念的記号の奔放な組み合わせを活用して抽象的概念操作を行い、新種の意味の複合体の提示を示唆する形而上学的思弁を映像化することにある。そこでは個人存在と現象生成を司る原形質的存在原理に対する超出的記述の可能性が切実に模索されている。そして“仮構”とは、本来そのような観念操作が徹頭徹尾行われる場だった筈なのである。






 本作のエピソードの各々はデカルトに倣って“省察”と名付けられている。省察1「はじまりの鼓動」では、未来都市の実験室らしき場所で拘束されていた“検体”が目覚めてしまうところから物語は始まる。研究施設の破壊の結果“検体”と呼ばれる異形の怪物の逃亡がなされた後、正体の知れぬ何者かのモノローグが観客の耳に聞こえる。「その時全てを理解した。創造主のしくんだ悪意の全てを。我々はそれに抗うことはできない。ただ、ただ彼等には罰を与えなくてはならない。…始まりの鼓動が聞こえる。」この独白をなすものの正体は明らかにされていない。この後、異形の者たちの姿が二体、シルエットのみで画面に映し出される。その有様は戦いのようでもあり、また旧知の者達の会話のようでもある。しかし彼等の正体も彼等の間の関係も全く具体的に示されることはなく、この場面で彼等の間に実際に何が起こっているのかは、即物的な映像の断片によって提示されているのみで、その概念的意味性は明示的に示されてはいない。この極めて暗示的な場面に描かれた出来事の背景と実質を理解するためには、最終話に至るまでのこのアニメーション作品の特異な主題提示の表象形成の手法を綿密に追っていかなければならないことになるのである。
 古代ギリシア神話の神々がそうであったように、カオスから隔絶した限界あるコスモスの制約ある自由と存在意義をしか与えられていない世界を支配しあるいは生かされていることを余儀なくされたことの自覚が、予めそのように世界の基軸と物理定数を設定した超越的存在である“造物主”の悪意を感じ取ることとなる。人は時間的存在として限りある意識と生命を与えられた致死性の運命として、遺伝子内のテロメアの機能により有限の細胞分裂の回数を定められたことが確証される “ヘイフリック限界”という定数の原理的運命性を痛切に自覚する。人を越えた者もまた、死すべき道を閉ざされた超越的存在として造り上げられてしまった、ヘイフリック限界を持たない“アムリタ細胞”の持ち主である選別存在であることへの痛切な自覚を抱かざるを得ない。渇望する理想と乖離した苛酷な現実に対して不満を抱き、居もしない神を呪ったりその加護を期待したりするのは、ニーチェの冷徹に指摘した通り未成熟な意識の陥るルサンチマン以外の何物でもないが、ここに提示された可能世界においては実際に“創造主”と呼ばれる上位の意識体が存在することが規定されており、また主役となる存在者自身も一人の“創造主”として、部分的小世界と自身の下位に属する意識体を創出しているのである。このフィクションを形成する観念世界においては、様々な位相における上位存在者の悪意の認知と、これに対する下位存在者による報復行為の具体的様相が多面的に語られることになっている。
 宇宙の全体構造とその下位構造である自己との間にある如何ともし難い絶対的関係性を認識し、外部の支配から決して自由であるとは言えない限界ある自我存在を感じ取る意識の主体こそが、通例“人”という言葉で理解されて来たものであった。しかしこの仮構作品においては、その“人”性に対する新たな考究の可能性の飛躍的展開が企てられている。それは神の“永遠性”と“全能性”という概念に対する依存を放擲した懐疑的意識の抱く、超科学的思弁と言ってよいものである。『エルゴ・プラクシー』において“造物主”に対する怨嗟の感情を養い報復を目論む存在は、“プラクシー”という名の人間とは別種の意識体となっている。通例は“代理人”を意味するこの言葉は、ギリシア神話の神々が各々の抽象概念のそれぞれに対応する意識を備えた個別的存在であったことに示されていた全体性の宇宙の示し得る位相と、キリスト教神話において造物主の意図を実行する役割を果たす“使徒”という存在が担っていた全体性を補完する位相の双方を含意し得るものと考えられる。しかしそれだけではなく、さらに統括的な宇宙と精神の統合記述を可能にすることを目論んだ創造的指標とも見なされるべきものが、このアニメーション作品において独自に採用された“プラクシー”という存在概念なのである。仮構作品として現出する表象の全てが“リアリティ”の現象性を乖離した巧妙な観念の重ね合わせとして概念/映像形成がなされて提示されることとなっている。
 『エルゴ・プラクシー』に登場するドーム都市を管理する4体のコンピュータ達は、それぞれバークレー、フッサール、デリダ、ラカンの哲学者達の名で呼ばれ、またミケランジェロの彫刻作品「昼」と「夜」の対と、「夜明け」と「黄昏」の対として各々の外形を与えられている。作品内の設定に直接には関係を持つことのないこれらの現実世界内の概念的連関は、提示される仮構世界の表象的内実と平行して観客の心象内に多様な知的連想を展開させることとなる。ルネサンスの天才彫刻家の手による立体造形作品の表象に見られるように、しばしば原理的な本質を語ろうとする際には、一つの主題が対照的に分極した“対”で表現されているところが、このアニメーション作品の根幹的主題と深く関連することになっている。全方位的・無限延長的に確証された原理とはほど遠いものとして、かつて普遍原理として受け入れられていた“科学”と“理性”は、再検証の手を加えられなければならないからである。コスモスとカオスの対照、昼の原理と夜の原理の対照などの2極性原理に基づく新たな宇宙原理把握を図る意識は、科学思想の原理的特質に対する深い反省的自覚と、その限界を超出した普遍的真理への飽くなき憧憬を反映している。宗教と分たれたものとして生成した科学の次元拡張の後再統合された様相において獲得されるべき神と人の共有する心霊的位相と思われるものが、本作では大胆に表象化の操作を加えられて追求されているのである。
 世界のシステム的破綻が進行しつつある一方、モスクからロムドに移民としてやってきた平凡な人間ヴィンセント・ローは、与えられたオートレーブ処理課の下級職員としての職務を、市民として認められるべく忠実に果たそうと努力している。ヴィンセント・ローの首には、奇妙な形のペンダントが下げられている。ストーリーの表向きの“リアリティ”の様相面では、物語はヴィンセントの背負う数奇な宿命とこのペンダントの秘める謎の解明作業という形で、一見したところSF的な道具立てのもとに進行する。しかし概念構造の集合体として観客の眼前に示される作品の全体像は、ミステリーや科学の前提とする具象的領域を遥かに踏み越えた、概念/心象を統合する観念の多様体構造を呈するものとなっているのである。
 ロムド・シティを支配する“執国”の補佐を務める4人の哲学者達の名を与えられたコンピュータ達は、社会の管理と人間の補充について語る。「不足すれば、増産すればよいだけ。」この世界で“人間”と呼ばれるものは、実は彼等の補佐を務める随伴型アンドロイド“アントラージュ”と同様に必要に応じて“増産”されるものである。逃亡した怪物の残した特有の痕跡を発見した情報局捜査官リル・メイヤーに、彼女のお付きのアントラージュであるイギーが警告を発する。「その行為は禁止されています。」オートレーブ・イギーはリルの忠実な補助要員のアントラージュであると共に、実はリルの行動を監視し中央に報告する管理社会の歯車としての中継装置でもある。しかしこのオートレーブ達には“コギト・ウィルス”と呼ばれるシステム・バグの感染が確認され、ウィルスに冒された個体は個々の存在理由を模索する独立した精神を持つ意識体と化してしまうのである。捜査から帰宅したリルのもとを訪れたのは、マスクのようなもので顔を覆った異様な姿の怪物であった。後を追うように現れたのは、またこれとは別の姿をした怪物だった。後に現れた方の怪物が、物語の冒頭で“覚醒”して脱出した“検体”である。これら2体の怪物と、彼等とリル、そしてヴィンセントとの潜伏した関係に関する謎解きが、事件の正体のミステリー的解明を越えたこのアニメ作品独特の形而上的な意義性を担った主題を語る軸となる。ヒントとなる概念は“影”、“モナド”、“ペルソナ”等の、全一性の宇宙観に基づいた統括的存在・現象解釈に関連する術語であると思われる。ロムド・シティの管理局局長ラウルは執国に呼び出され、検体の捜索を急き立てられるが、執国とラウルは実際に口を開くことはなく、彼等の会話を代行するのはそれぞれのオートレーブ達である。
17:04:52 | antifantasy2 | | TrackBacks
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