Complete text -- "『エルゴ・プラクシー』論 3"

23 September

『エルゴ・プラクシー』論 3

 省察7「リル124C41+」で、ウィルスに冒されてロムドに帰還したリルを迎え入れたデダルスは、“アムリタ細胞模倣子”を注入して治療を行う。“利己的な遺伝子”という斬新な概念を提唱した生物学者リチャード・ドーキンスの提示したもう一つの重要概念は、模倣子“ミーム”(meme)であった。細胞内に組織的実体として存在する遺伝子“ジーン”(gene)に対応する、物理的実体を持たない概念上の形質伝達要素として導入された“模倣子”という述語は、文化や思想の模倣的伝播に対して適用された概念であったが、一方システム理論的な別側面においては、物質粒子という基礎概念を採用して宇宙の力学的理解を目論んだニュートン的科学の解式とは対蹠的な、物質と情報の相互遷移が可能な共役的原理に基づく原形質的宇宙像の原理性記述の可能性を示唆するものでもある。ドーキンス自身は明確に神を否定しているが、むしろ科学の枠を踏み越えた領域において“神”概念再考と“魔法”概念再検証に興味深く関わるのが、宇宙の全体としての存在原理に基づいた物質/情報の反転的描像を示唆する模倣子という単位概念の発想なのである。物質のみを世界構成要素として理解しようとする“唯物論”の発想においては、世界の存在単位は不可分の質量単位である“原子”という粒子において基本的に理解されることとなっていた。この記述システムによれば全ての存在と現象は粒子の運動と衝突という力学作用として表記され、“ラプラスの魔”という全能的観測者の存在として仮定されたように、現象の全てを精密に計算し予測することが可能となる。しかしこれとは異なる事象の観測者の想念との相互作用による全体性の宇宙の心象把握というモデルを構築すると、例えばライプニッツが提起したように、“モナド”という原子とは全く異質の単位概念が主張されることとなる。モナドは原子がそうであったように集合として他の概念に包摂されることのない、全体性の宇宙の一断面のような単一的様相として理解されるべきものであった。この発想はプラクシー存在の内実を理解する鍵となるが、興味深いことに本作品においては“モナド”という名称はさりげなく概念軸をずらして導入されることとなっている。デダルスはリルに回収された検体の名前が“モナド・プラクシー”であることを教える。この物語においては、モナドは様々の権能を持ったプラクシーの中の一個体に対して与えられた呼称として用いられているのである。さらに“プラクシー”という存在について、デダルスはリルに語る。「この荒廃した世界で我々が生き残るために必要なフィールドを維持する鍵。」このデダルスの言葉から示されるように、プラクシーは特定の行動や操作によって人間社会に何らかの力を及ぼすものではない。プラクシーの存在そのものが、ある意味で宇宙の自然法則や潜勢力と等質の作用を及ぼすものとして、人間の社会という場の維持に欠かすことができない原理的素因として機能しているのである。プラクシーの不在が直裁にロムドの秩序のゆらぎとコギト・ウィルスの蔓延をもたらすのである。事象の固有の選別的現象操作を司るプラクシーは、物理的事象界面における“マクスウェルの悪魔”の変化形とも見なし得るものであるが、プラクシーの暗示する存在原理が局所的作用による現象伝達しか認めない粒子論理的存在解釈を転覆するものであることに間違いはない。その意味でプラクシーそのものが、モナドという概念の一つの表象としても理解し得るものとなる。
 省察8「光線」においてモスク・ドームを目指す旅の過程で外の世界でヴィンセント達が見つけたロムドとは異なる都市構造物は、“ハロスの塔”と呼ばれるものであった。ハロスの塔の人々を指揮してロボット達との不毛な戦いを続けているのは、オマカトルとパテカトルという名の軍人達である。彼等の名前が由来するアズテク神話の始祖オマカトルとパテカトルの場合がそうであったように、全知全能で姿形を持たない抽象的イメージの神とはまた異なる、権能に限界があり特定の属性・形象を保持するばかりか人と交わり人の祖先となったりさえもする神の姿は、人間と神の間の関与のあり方をむしろ科学的に考えさせてくれるものである。神の存在証明のなされ方においても、人間理性によって捕捉可能な限界ある権能の具現化として、神概念は“空虚としての神”、“数式としての神”、“物理法則としての神”等のように、論理学的・数学的な様々な変換記述の方式を考案して理解され得ることとなる。そして純然たる科学としての枠組みから物理的に神存在そのものを捉え直して、“コヒーレンスとしての神”、“モナドとしての神”、“ペルソナとしての神”等の範疇の中に、新たに神概念を規定し直すことも可能となってくる。これらの思念の具体的な実例の一つが、『ピーターとウェンディ』に描かれた“ピーター・パン”という存在と“ネヴァランド”という世界であったが、『エルゴ・プラクシー』が企図しているのもこの知的なお伽噺と全く同様の形而上学的思弁なのである。このように人間知性によってその存在性向が科学的に捕捉され得る神とは、実際に“神殺し”、“神に対する恫喝”、“神との取り引き・交渉”、“神の監禁・封印”等の行為を行う可能性を示唆するものである。そうであるならば、人の行う技あるいは存在目的自身が、“神の鋳型の制作”、“新たな神の創作”、“人の神への進化”等の形をとって具体的に掲げられる結果をも招くことだろう。ここに挙げたような思想的目的措定の可能性に対する自覚は、反転して“神による人間の創造”から、“神の人間化”、“人の神格化”“神と人の分化”等の諸概念の実質に対する新たな角度からの考察の必要を迫るものになるのである。

 ロムドやモスコは“ドーム”と呼ばれる閉鎖空間であったが、省察9「輝きの破片」に登場したアスラはハロスと同様に“塔”(タワー)と呼ばれていた。エッフェル塔や東京タワーなどの無骨な建造物の誕生以来、“タワー”と言えば電波発信塔としての役割を果たす実用施設に成り下がってしまったが、中世以前に語られた“タワー”と言えば、しばしば魔法使いが構えている権力と魔力の象徴となる不気味な構築物であった。トルキンの『指輪の王』に描かれた“サルマンの塔”などにかろうじてその残滓が窺われるが、この物語においてはそれぞれのプラクシーの創造しその権能のもとに保護されていた小宇宙の表象を示すものとして、ドームやタワーなどの概念が導入されている。そしてプラクシーの支配する“場”の性質が異なれば、その世界はさらに多様な建造物や都市やさらに特殊な観念的表象を与えられて現出することとなる。ハロスの塔はプラクシー・セネキスの創造し統括する小世界であり、これと対をなすアスラの塔は、プラクシー・カズキスの支配する小世界であった。“月光のプラクシー”セネキスや“光輝のプラクシー”カズキスが存在することは、抽象概念の各々が対応物としてそれぞれの具象的存在形態を示す位相遷移が可能であることを暗示している。これらの存在/現象/意味の位相変換の可能性を超物理的なシステム理論として捉え直し、プラトンの“イデア”説や土俗的信仰における“付喪神”等の背後にある宇宙論的存在原理を反映することによって、この作品に導入された“プラクシー”という存在の秘匿された意義性が明らかにされることになる。細胞において死の機能を獲得した遺伝子ユニットであるテロメアが果たすシステム的機能と死神/破壊神の果たす宇宙進化的存在意義の双方を、個別的存在物全てに作用する潜勢力的要因として統合的理解を図るシステム理論的考察が示唆されている。この発想を反映する具体例が、省察10「存在」でデダルスが顕微鏡で覗く検体のアムリタ細胞の映像に表象化されている。細胞の活動特性を示す生化学上の概念である述語“シトトロピズム”(cytotropism)は、細胞の塊が持つお互い同士引きつけ合う、あるいは反発し合う傾向性もしくは、特定の細胞群を選択してウィルスが作用を行う原理特性と理解されるものである。生物の活動の基本単位となる存在として細胞自体の保有する動的傾向は、“生物”そのものの目的性を定義づける指標となる。仮構内の礎石的設定要因としてこの作品が提示するのが、プラクシーという生化学的“神”解釈を示唆する、死のプログラムを持たない“アムリタ細胞”を造物主によって与えられた存在なのである。体内に細胞死のプログラムを与えられず、個体死の展望を持たないプラクシー達に唯一死を施す力を備えた、プラクシー全体におけるタナトス的なシステム機能の具現化として“死の代理人”エルゴ・プラクシーがある。光輝のプラクシー、カズキスを倒し、エルゴ・プラクシーとして覚醒したヴィンセントを出迎えたピノは語る。「もう一人の、ヴィンスじゃない、もう一人のヴィンスね。」ピノはやはり、ヴィンセントという個人存在が複数体出現することに何の疑いも持っていない。これに照応して省察10「存在」では、“リル”に相当する個体が3体出現することになっている。執国の孫娘の人間リル・メイヤー、リルが無人の町で出会った幻想とも実在ともつかない若い姿のリル、そして何故かデダルスが“リル”と呼びかけた、回収されて戻って来た検体の死骸である。
 さらに省察11の「白い闇の中」では、自我の裡に潜む全体性の反映である存在原理に関する考察が掘り起こされていく。外の世界でヴィンセントが見つけた書肆“街の光”の主人は言う。「このように沢山の本が存在するためには、先ず読む人間が社会と呼べるものを作り出していなければならない。」/「ただ、人間が社会を作り出すためには、言語での対話が必要となる。」/「本が純粋に人間的な方法で確立されたと言い切ることは不可能だ。」主人はジャン・ジャック・ルソーの“言語起源説”における言語の発生に関する指摘を書物に当てはめて語っているのである。“言語起源説”においては、人間が論理的な文法構造を備えた言語を創出するためには、文法に関する互いの理解を図りそれを音声で伝達するという事前の手順が必要であることから、より高次の言語活動の存在を前提としなければならない、という逆説が語られていた。またルソーは、存在する現実世界を記述する筈の言語が現実世界を構築する機能を備えていることも指摘している。ここでは因果関係という時間軸の制約を超えた原形質的様相における、事象と概念の背後にある世界のプレローマ的実質の姿が意識されているのである。
 書房の中に突然現れた何者かがヴィンセントに語りかける。「お前は何者でもない。」この言葉を受けたヴィンセントの想念が、様々の映像となって画面上に表れていく。これまでに彼が出会った者たちの全てが、リルの部屋を訪れた怪物のマスクを被っているのである。それはヴィンセントが覚醒の結果認識した、自分自身の紛れも無いもう一つの姿であった。ヴィンセントは全ての他者に自分自身の反映を見ながら、“自分”と“他者”について考える。/「俺は他者から見ると世界の一部だが、世界を眺める視点としての俺は世界にはいない。」/「俺が見るものが世界であり、見る俺とは飽くまで世界を構築する視点。」/「世界に属することはできない。」/「原理的に言える真実だ。」/「何者でもない。」/「俺は世界に属さない。それこそが世界の限界であり、自我と世界の境界線だ。」世界を知覚する“自我”と“世界”の全体性の間には計り知れない断絶がある。見知らぬ何者かも言う。「“我思う故に我在り”ではないよ。…“我思う故に君在り”だ。」“我”の知覚の対象として認識される他者は、結局のところ全て“我”の意識の反映に他ならない。座標的には集合として全てを包含する筈の最も広大な“世界”という概念と、その世界の内部に位置を占める部分集合としての微小な一点である筈の“我”も、実は知覚と印象を存在理念の裡に認めるクオリア的には、交換記述が可能な連続概念の両端であることが示唆されている。知覚の主体である意識と知覚対象としての世界の示すこの一見二律背反した関係性の示す不可解な内実については、書房の主人も語っている。「しばしば反対の意味を語る言葉にこそ、世界の秘密が現れているものだ。」ヴィンセントはこの言葉に反応して答える。「俺達が世界そのものであることを証明している。」世界全体を一つの他者として認識する“私”という意識は、あり得ない何物でもない存在であり、それは同時に世界そのものでなければならない。ヴィンセントの前に現れた怪物はやはりもう一体のプラクシーであるらしく、プラクシーの生成した意味についてヴィンセントに告げる。「命という名のシステム、という名の世界を繋ぎ止めるため、俺達以外の誰かが俺達を作り上げた。」ヴィンセントが辿り着いた書房で目にした本には、どの本にも自分の名が記されており、そこにある全ての本が自分自身についての記述であることが判明する。本と本を読む意識の主体である知性との関係として提示されたパラドクスは、世界と世界の存在機構に想いを致す知性との関係においても、同様の反転現象を形成する。そこには経験的に捕捉されていた孤絶した“自我”という概念の成立を根幹から否定する超出的発想が秘められている。こうして“自我境界線”の崩壊を自覚した“私の意識”は、“見るもの”と“見られるもの”、“自分”と“他者”という、かつて思考の基軸にあった基幹概念の放棄を迫られることとなる。“命”と“命を奪う道具である弓”の双方を指示する両義性を備えた“ビオス”という言葉の例に示されていたように、言葉によって指示されるべき思考の対象は、実は正反対の異なった概念の併置によってこそ正しく参照されるものであるという原理が主張されることになる。悟性認識の超出を企図してクザーヌスが語ったような“正反対の一致”(coincidentia oppositorum)の原理が、一般理性においてはしばしば“パラドクス”という形で現出するのである。このような“孤絶せざる我”としての自覚を獲得した一対一対応に基づく“理性的”範疇区分に拘束されない意識においては、“自分をその中に包含する世界”を前提とする必要のない“自我”像が示唆され、“複数の自分”や“自我の多様化”等の存在理念が全体性の宇宙論の前提の中に認められることになる。デカルト座標における“全体と部分”の間にあった集合的制約を超出するホログラム的存在解釈を導入した自己同一性の存在論がそこに展開されるのである。世界と私についてのこのような省察を反映して様々な表象化を構想し、知の位相の映像化を図ったのが『エルゴ・プラクシー』という他に類を見ないアニメーション作品なのである。
17:10:36 | antifantasy2 | | TrackBacks
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