Complete text -- "『エルゴ・プラクシー』論〔3) part 1"

21 March

『エルゴ・プラクシー』論〔3) part 1

科学とSFと哲学的省察:『エルゴ・プラクシー』における神と人と“自分”(3)


 アリストテレス哲学に対する偏向した理解に基づく中世スコラ哲学的な父権的キリスト教概念を脱却し、“個”としての人間存在の創造性の中にこそ全体の反映としての神性を見出す反転原理を自覚するに至った、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの活躍したルネサンスの人文主義的哲学にあった神秘思想を想起させると共に、“分裂”と“統合”という“知”の汎宇宙的自己達成過程を通して仮構と現実を通貫する包括的なシステム理論の存在をも示唆するかのように思われる映像的仮構『エルゴ・プラクシー』は、愈々仮構自身をその直截的な主題として選んで独特の「省察」を押し進めていくこととなる。省察19「少女スマイル」においては、さらに新たなプラクシーの登場を通して“存在”と“現象”という仮説的な概念の背後に横たわる“原存在”における人格性の実質に対する再解釈が図られるものとなっている。しかし今回のエピソードの主役を演じるのは、超人的な存在であるプラクシーとしての謎を秘めたヴィンセントではなく、また“人間”としてプラクシーと自分自身との間の不可思議な因縁の内実を解き明かそうと模索するリル・メイヤーでもなく、人間に奉仕すべく制作された機械人形であるオートレーブのピノなのである。
 ピノは、何物かの誘いの声に導かれていつの間にか自分が全く覚えの無い場所に来てしまっていることに気付く。廃棄物の集積所のような場所で周囲を見回すピノの前にがらくたの山の中から現れたのは、これまでの『エルゴ・プラクシー』の作品世界に登場していたもの達とは明らかに異なる、極度にデフォルメされたぬいぐるみのような外観を持つ典型的なアニメ・キャラクターのアルとプルの二人である。彼等はピノに告げる「ここは世界スマイル園。全てのお客さん達に永遠の笑顔をあげちゃうためのアミューズメント・シティさ。」/「この町は全部丸ごとが、素敵な遊園地になっているんだ。」/「だから、この町の人々は一年中ず〜っと遊び続けて笑っていられるんだ。」彼等は遊戯施設付属の劇団“コメディア・デラルト”の役者達なのであった。しかし彼等もまたピノと同様に、特定の役割を与えられて人類に奉仕すべく作り出されたオートレーブなのである。
 イタリアに昔から伝わる伝統的な人形劇が“コメディア・デラルト”であった。そこで演じられる、若い恋人達といつも彼等の邪魔をする腹黒い年寄りという決まったキャラクターが繰り広げるお定まりの筋書きのお話の中で脇を固める道化の役を演じるのが、“アル”ことアルレッキーノと“プル”ことプルキネッラであった。白いだぼだぼの服を着たアルレッキーノはフランス語ではアルルカン、英語ではハーレクィンと呼ばれている。これらの定型的な配役のもとに典型的な“スラップスティック”と呼ばれるドタバタ喜劇が、祖型に従って常に決った形で演じられていたのであった。これらの猥雑なエネルギーに溢れた庶民的な伝統芸能に対してディズニー・アニメは、従来の民衆娯楽にあった暴力的で毒々しいスラップスティックの要素や扇情的でエロティックな要素を極力排除して、いかにも家庭向きの口当たりの良いPTA好みの優等生的な娯楽作品を型にはめて提供した点で、むしろはなはだ有害なものがあると言うべきだろう。省察19「少女スマイル」は、20世紀アメリカ・アニメの代名詞であるウォルト・ディズニーと彼の築いた虚飾の歓楽の王国“ディズニーランド”に対する激烈な指弾に基づくカリカチュアとして展開されることになる。
 人々が楽しく笑って過ごすことだけが目的の“遊園地”という閉鎖世界で、その目を喜ばせるべき観客達に飽きられてしまって用済みとなり、廃棄処分となった使い捨てのオートレーブがアルとプルであった。ヴィンセントとリルの居場所を探すピノに、二人は彼等の創造主ウィル・B・グッドに助けを求めることを勧める。「困った時にはお願いだ。」/「僕たちの世界の笑顔の創造主、ウィル・B・グッドにお願いするのさ。」アルとプルはこの世界の主人、グッドに助力を請う手紙を出そうと試みる。しかしそこに現れたのは、童話『ピノキオ』に登場して主人公の操り人形を先導する役割を果たしていたコオロギにも似た“ロギ”である。ロギはアルとプルには目もくれず、何故かピノにだけ強い関心を示す。実は彼は創造主グッドの手先として、ピノからヴィンセントに関する情報を聞き出そうとしていたのである。ピノをグッドの許に案内してくれるというロギの言葉を聞いて、アルとプルも一緒にグッドの許に赴くことを思い立つ。「お願いだけじゃ駄目だって分かったんだ。だから僕らは行動する。」/「僕らは、ウィル・B・グッドのところに行くんだ。」/「僕らの生まれた意味だよ。僕らを作ったグッドなら知ってる筈。」/「生まれたのにはきっと意味がある。」二人はロムド・シティの感染オートレーブ達と同様に自我に目覚め、自分たちが産み出されたことの根源的な意味、レゾン・デートルを確認しようとし始めるのである。ところがロギは彼等には取り合わず、ピノにヴィンセントについての情報を尋ねるばかりである。「知らないかなぁ?…ヴィンスさんの特徴っていうか?」
 ピノがスマイル園で出会ったアルとプルやその他のキャラクター達を創り出した“創造主ウィル・B・グッド”は、かつてのテレビ番組“ディズニーランド・シアター”に登場して豪華な応接室で観客を迎えていた恰幅の良い“アメリカ紳士”ウォルト・ディズニーそのままの姿である。しかしグッドは、自分の創った世界の登場人物達が思い通りにストーリーを進行させてくれないのに苛立っている。ピノの紛れ込んだこの世界は、グッドの構想しつつある一つの創作世界なのである。ディズニーがアニメ映画化したイタリア童話『ピノッキオ』の主人公の名“松の木人形”からその名を貰ったと思われるピノは、操り人形ピノッキオが人間になることができたように自分も本物の人間にして貰うことを望んだSF映画『AI』の主人公のロボットの少年デイヴィッドを模して、フェアリーの仙女様ならざるディズニーの分身ウィル・B・グッドと邂逅し、そうとは知ることなく機械人形としての自身の存在の謎を模索することとなるのである。アルとプルのあてどの無いアドリブに業をにやしたグッドは、物語の創作者としての立場を放擲するかのように直接自らの造り上げた仮構世界の中に闖入して、作者の本音を語り始める。「アドリブなんていらないんだよ。」遂には旧約の神さながらに自らの被造物達の眼前にその姿を現して、彼等に干渉をし始めるグッドなのである。
 自分の創造した作品世界が全く思惑通りに進行していないことに癇癪を起こした創造主グッドが、彼の被造物であるアルとプルの存在意義に関する切実な問いに対して与えたぶっきらぼうな返答は、哀れな真実の探求者達の期待に反するものであった。グッドはアルとプルに言い放つ。「だいたい、生まれてきた意味だって。そんなものある訳ないだろ。…お前らはな、無意味な出来損ないなんだよ。…全く、何の役にも立たないくず共めが。」アルとプルと並んで眼前に現れたピノに、グッドもやはりヴィンセントのことを尋ねるのである。しかしヴィンセントの弱点を尋ねられたピノは、AIには似つかわしくなく何故か嘘をつくことができる。ピノは答える。「知らない。」グッドもまた一人のプラクシーとして“始まりの鼓動”を感じ取り、他のプラクシー達の死をもたらすエルゴ・プラクシーと出会って戦わねばならない宿命を恐れていたのであった。娯楽の世界の帝王ウォルト・ディズニー自身のキャラクターを背負うこのプラクシーは、戦いに背を向けて自らの創造した実の無い夢想の中に留まり続けようとする、自閉と怯懦という特徴的な属性を備えたプラクシーだったのである。グッドはピノに語る。「もうすぐヴィンセントがここにやって来る。プラクシー同士が出会ったら、戦わなくてはならない。…だから、君の夢に干渉してヴィンスの弱点を聞き出そうとした。」ピノは尋ねる。「これは夢なの?」グッドが答える。「夢であって、夢じゃない。」グッドの想念の中の仮構世界とピノの生きる現実世界は、意識の中では截然と分たれることなく一方からの干渉を許すものなのである。
 グッドの目的は、もうすぐ終わりを迎える世界の最後の時まで、目の前の現実から目をそらしてただ平穏に生き続けることだけにある。彼のその自閉的な目的のためにのみ、彼によって創られた世界とそこに住まうもの達の生がある。しかしながらこの閉鎖世界を生み出した紛れも無い創造主として、ウィル・B・グッドは彼の被造物達に創造主の意図を明かすことになる。「この街の人々はね、生まれて死ぬまでずっとここで遊び続けるんだ。そして何も知らずに幸せなまま、世界の終わりを迎えられる。」図らずもグッドは、彼の創出した被造物達のレゾン・デートルを語ってしまっている。それはアルとプルが思い描いていたような高邁なものでは決してないが、彼等の誕生を導く初動因であった事実には間違いは無い。アルとプルの模索したレゾン・デートルは、皮肉なことにその創造者自身が意義性に全く価値を見出し得ないものであった。おそらく自らの管理下にある存在者達に対する根幹的な意識の在り方においては、政府も文部科学省も本質的には全く変わるところはないのであろう。親や教師達もその点においては全く同様である。現在、大学がおしなべてディズニーランド化している原因も、まさしくそこにあると言っても良い。神を無くした世界の行き着く果ては、見通すのにそれほど困難なものではなかったのである。おざなりな“信教の自由”を保障されて、お情けのように卑小な“実存もどき”を恣意的に模索する権利を許された浅薄極まりない我々の現実世界の実情に増して、むしろ問題となるのは『エルゴ・プラクシー』という仮構の中で「神はどこに行ったのか」なのである。創造主対その使命を負わされたものとしてのグッドとアルとプルの間の関系は、エルゴ・プラクシーとその創造主との間の関系を示す伏線ともなっている。
 これまでヴィンセントが出会ったプラクシー達が“ドーム”や“塔”や“森”などの世界の中でそれぞれの権能を行使して自らの被造物である人を造り上げアントラージュに奉仕させたように、ウィル・B・グッドもアニメ作品の中で種々の架空のキャラクター達を造り上げてその世界の住人に奉仕させている。プラクシーの支配する固有の領域に様々な構造体としての変異があり得たように、“クイズ番組”や“遊園地”あるいは“アニメ作品”などの観念的要素を主軸にした構造体が存在する。制作者ディズニーが彼の創作による抽象的な観念構造体であるアニメーション映画の世界に対して保持する関係性は、“現実”と“フィクション”という些細な異なりはあったとしても、ロムド・シティの“ドーム”やアスラやハロスなどの“タワー”を造り出したカズキスとセネキスと同様、観客としての“人”あるいはアニメ・キャラクターの創造主であるプラクシーとしての立場においては、世界の創造主としてある神との類比において全く変わるところはない。仮構世界の制作者は、神的位置に確かに自身の存在を置いている。内面心理のメカニズムとして現象学を考察したフッサール、心霊的な精神分析の手法を開拓したラカン、ルソーの言語起源説を再解釈したポスト構造主義に位置するディコンストラクションの思想家として知られるデリダ達と並んで、世界そのものが神の思念であると構想したイギリスの司教バークレーの名がロムド・シティの管理を司るドノブ・メイヤーの4体のアントラージュ達の一つに与えられていた事実が、この「スマイル園」で漸く符牒を見ることになる。

00:02:32 | antifantasy2 | | TrackBacks
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