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05 September

召喚魔法と個人存在 ―『Fate/stay night』における存在・現象・人格概念

 『Fate/stay night』は、Type Moon 社により2004年に発売された奈須きのこのシナリオによるエロゲーである。魔法の力により神話や伝説の世界から召喚された英雄達をサーヴァントとして使役し、絶大な願望を叶える力を持つ聖杯を勝ち取るための魔術師達の戦いを題材としたこのゲームは、最初はウィンドウズ版のコンピュータソフトとして発売されていたが、現在ではいくつかの家庭用ゲーム機にも移植されて一般作として広く受け入れられている。他にも『Kanon』や『Clannad』等の水準の高いエロゲーの多くがこれと同様の経過をたどって一般ゲーム作品やアニメ作品として当たり前に世間に受容されることとなっているのは、現在の日本の最先端の仮構表現と仮構世界創出の場の実態を語る一際興味深い事実であると思われるのである。
 作品世界の賞玩においてエロ要素を鑑賞あるいはプレイの動作目的にしたゲーム作品は一般的に総称して “エロゲー”と呼ばれているが、作品毎の内容的特質を反映してエロゲーも種々の下位区分に分類されており、それぞれ毎の個別カテゴリー名称が付け加えられていることも多い。『Fate/stay night』の場合は、“伝記活劇ビジュアルノベル”というサブジャンル名称が平行して与えられている。文学作品において歴史小説や恋愛小説や推理小説等の種々のカテゴリー区分があり、また映画作品においてサスペンスやアクションやロマンス等の様々なジャンル名称が認められるのと同様に、“ゲーム”という形で現出した仮構メディアの中においても、いくつかの選別的特質が作品固有の傾向を醸成することとなっているのである。殊にゲーム作品の場合は“エロゲー”や“ホラーゲーム”等の題材的要素から分類される範疇区分のみならず、プレイヤーによる操作手順の側面からも特有のカテゴリーが構築され、いくつかの特徴的なコンピュータ・ゲームとしての下位ジャンルが形成される結果となっている。アドベンチャー・ゲーム(ADV)、シミュレーション・ゲーム(SLG)、アクション・ゲーム(ACT)、ロールプレイング・ゲーム(RPG)、テーブル・ゲーム(TBL)、シューティング・ゲーム(STG)等がその代表的なものである。
 これらのサブジャンル区分は、小説や詩の読者あるいは演劇や映画の観客の場合のように作品世界の展開に対して受動的な鑑賞者としての視座に留まることのない、双方向的関与を行って仮構世界の推進を行う“プレイヤー”の存在を前提とする新種の仮構世界の実質を具体的に物語る実例として、殊に興味深いものと思われるのである。それのみならず、既存の種々のメディアにあった先行例となる諸要素にかつての文藝作品や映像作品には存在し得なかった新規の諸要素が順列組み合わせに従って網羅的に適用された結果、多様性に満ちた芸術表現の複合形態が能動的鑑賞/個人的体験の対象となるゲーム作品として実際に制作され、種々の妙味ある仮構作物として具現化しつつあるのである。仮構とメディアの連続的な複合体として文学作品世界とゲーム作品世界を包括的に捉えるならば、従来の伝統的な文学作品はいわばページをめくって文字を読み進めることによってのみプレイを進行する、機能を大幅に制約されたゲームの一形態であるとも看做し得ることになるだろう。
 エロゲーにおけるジャンル区分はかなり一般的に認知されて既にジャンル呼称が定着したものもあるが、現状では基本的に制作者側の申告による恣意的な名称賦与がなされているので、個別の作品に付加された実際の下位ジャンル名称を確認してみると、エロゲー作品の総体的な概念的枠組みの展開軸の範囲を改めて考察する上で取り分け興味深い指標となりそうなものも数多くある。以下にエロゲー専門雑誌に掲載された付加的ジャンル名称の印象的な実例のいくつかを挙げてみることにしよう。

 『Fate/stay night』:伝奇活劇ビジュアルノベル
 『マブラヴオルタネイティブ』:あいとゆうきのおとぎばなし
 『To Heart 2 XXRATED』:ビジュアルノベル
 『ef』:インタラクティブ・ノベル
 『CHAOS; HEAD』:妄想科学ノベル
 『戦国ランス』:地域制圧型SLG
 『つよきす』:強気っ娘攻略ADV
 『D. C. ~ダ・カーポ』:こそばゆい学園恋愛ADV
 『夜明け前より瑠璃色な』:月のお姫様ホームステイADV
 『君が望む永遠』:多重恋愛ADV
 『恋姫+無双』:妄想満載煩悩爆発純愛歴史ADV
 『プリズム・アーク』:S RPG style ADV
 『Really? Really?』:想い出修復ADV
 『ここより、はるか』:新たな世界で大切な何かを掴み取るADV
 『彼女×彼女×彼女』:同居型エロ萌えADV

 ゲーム作品の多くが複数のキャラクターを登場させストーリーを持つ“物語”の特質を保持することから、“ビジュアルノベル”や“インタラクティブ・ノベル”等の文学作品との類比とこれに対する付属的な特質を示唆するカテゴリー名称が与えられていることが理解出来るだろう。それと同時に物語系ゲーム世界独特の様式として“アドベンチャー・ゲーム”(ADV)という呼称が定着し、このジャンルの主流を形成しつつあることもまた分かる。上に例示した題名とサブジャンル名称の選択に反映される一見純朴でありながらも極まった諧謔性を備えた捻転したアイロニー感覚は、これらの仮構作品制作者達と受け手であるゲーマー達双方の決して固着した価値基準に容易に束縛されることのない、実はかなり高踏的な意識のあり方を反映しているものだろう。しかも “エロゲー”としての主軸となる“エロ”要素を補完あるいは延展的に拡張して多様性に富む題材と手法が様々に導入され、このジャンルの秘める潜在的特質が全方位的に展開されつつあることがここに読み取れる。
 実は殆どの芸術作品の主軸を成す基幹的要素は、生に対する鋭敏な感受性と偽らざる現実認識を可能にする熾烈な知性とさらに判断を制約されることのない柔軟なアイロニーを凝縮した結果であるエロとグロとナンセンスにある筈なのである。だから演劇や文学や映画等の魅力の核心となる“芸術性”の実質がこれら三つの要素に還元されるのも、実は至極当然のことなのであった。古典的な文学作品や美術作品に内在する“エロ要素”の占める意義性は今更言うに及ばないが、いわゆる“エッチ”要素を作品的特質として明示的に掲げる“エロゲー”における“エロ”の選別的特質については、改めてその実質を確認してみる必要があるだろう。
 システム的には、様々な芸術表現において創作行為と鑑賞を有機的に連関する価値基準を構築する内在原理が、“パースペクティブ”として個々の作品中に必然的に仮定されることとなる。それと同様に、“エロゲー”における作品世界鑑賞の基軸あるいはプレイヤーとしての能動的体験試行を実行するための固有の流儀は、個々のヒロインを対象としてそれぞれ毎の“攻略”を行うための選択肢の抽出を推進するという特有の様式の裡にある。攻略対象となるヒロインの基本属性に従って予め設定された“好感度”等の条件の蓄積が一定水準に達すると用意されていた“イベント”が発生し、ヒロイン個々との可能的関係性として潜在していた“ルート”の発現が確認され、最終的には攻略対象となるヒロインとのエッチシーンが導かれることにより進め手のヒロイン攻略の試行が完遂されることとなる。これは恋愛小説や冒険小説あるいはアクション映画やミステリー映画等それぞれの仮構世界において暗黙の了解として仮定されていた、仮構作品賞玩における意味的基盤を形成する目的意識や価値基準等を裏付ける基幹座標軸と等質の契約事項なのである。エロゲー世界の進行を支配するこの内在的ルールは、読み手の意識内に仮構が意味をなす世界として受容されるための前提条件となる意味性構築機構を決定する、純システム的な暫定原理なのである。特徴的なことは、エロゲーの大部分においてヒロイン攻略ルートは線的に単一の結論へと収束することは想定されておらず、むしろ選択肢の組み合わせの結果相反する物語描像が個別的に現出して、複数の拡散した“ストーリー収束”場面が実際に導かれることにある。 多くの場合プレイヤーの満足度を満たさないこれらの派生的収束結果は“バッドエンド”と呼ばれて再プレイを要求する転回軸となるが、これらも実は厳密な一可能世界のストーリー描像としては確かな“結末”の一つであったことには変わりはない。これは完結した“意味を持つ世界”でなければならないという制約を背負った従来の文芸的仮構が保持することを困難にしていた、期待に反する“無意味的収束”というはなはだ即物的で極めて“現実的”な様相を包含する機能をゲーム的仮構が新たに獲得したことを示す実例なのである。さらにこの事実は、複数の期待外れの結末として同位体的に発散した無意味的収束結果の対置を図ることにより、意味性構築機構の背後にある多世界に通貫的に存在するメタレベル的な世界の意義性そのものを検証する原理的特質を、ゲームという仮構形態が積極的な要因として備えていることをも示している。ゲーム作品は現実世界がそうであるように波束を収斂した“現象”として捕捉されるべきものではなく、波束の重ね合わされた原形質的な多義性のままにこそその“個別性”を判断されるべき新種の仮構世界なのである。
 仮構世界的意味性を一定水準で完結させるだけの説得力を備えたエッチシーンが導かれた後も、ゲームのプレイ自体がそこで終結することは実は稀である。多くの場合ゲーム世界はそこから“裏ワールド”へと進展し、既に体験した筈の同形のストーリーを文字通り新たな視点から再び辿り直して拡張次元における反転的世界描像を検証し直すこととなる。 この手順は通例攻略対象となり得るヒロイン毎に用意されており、数度に渡って繰り返されることが普通である。その結果得られた新たな統括的仮構世界描像は、時に次元超出的な秘匿された世界解式の存在を確証する跳躍的手順をも示すこととなるのである。 各ヒロイン個々に対する個別の具体的攻略手順であると共に、世界レベルにおいては分岐した無数の平行世界の内実の網羅的な経験による検証と、さらに意識存在にとって世界の原理的意味性賦与を支配する情報次元の展開範囲の延展をも暗示する、従来の芸術作品においてこれまでかつて具現され得なかった新様式の構築が実現されていると看做し得る顕著な特質がこの辺りにある。
 “聖杯戦争”に参加した7人の魔術師達がパートナーとして一人ずつ歴史上の英雄達を召還して戦いを繰り広げ、魔術的願望器である聖杯を勝ち取ろうと互いに競い合う、というのが『Fate/stay night』の伝奇活劇的な基本設定であったが、このビジュアルノベル作品は決して既存の神話や伝説等の依拠する固定した世界観を暗示する類型的パターンに収束してしまうことはなく、ストーリーを裏で支える仮構内存在者達の保持する価値判断や目的意識等が様々な側面から深く掘り下げられ、存在と現象と世界自体の意義性に関わる懐疑と再定義を企図する熾烈な主題性が窺える演出となっている。つまり召還される英雄の一人一人のキャラクターを、伝説を裏付けていたかつて英雄を英雄足らしめていた一意的な価値基準に基づく狭隘な見通し図に束縛されることなく、むしろこれらを反転的に脱却させてみせる大胆な思考操作を通じて伝説的存在を幻想を配した生身の人物像として再検証することにより、歴史上の“英雄的行為”や“悪逆行為”とされてきたものの内実について徹底的に批判的な精査がなされる結果となっているのである。本作の中心主題として採用された“聖杯戦争”という語に導入された“聖杯”も、実はアーサー王伝説における騎士ガラハドやパルシヴァル等との関連において語られて来た聖杯とは直接の関連を持たない呼称上の類比概念なのである。同様に、英雄存在を一般人と截然と分つことになる筈の“運命的出来事”と、平凡な一個の人間存在が日々の体験として実際に享受する飲食や性行為などの日常茶飯的出来事の双方が、ゲームプレイヤー自身の疑似体験としてあるがままの経験的事実であるかのようにごく自然に等価的に受け入れられることにより、一個の意識体にとっての切実な経験としての生の実相に対する徹底的な内省的検証もなされていく。神話を彩った神々の姿を語り伝えるのではなく、神話を個人の想念の中にまざまざと生きることを可能にしているのが、これら様々のゲーム作品の功績である。
 だからこそ『Fate/stay night』においてそれぞれの主要女性キャラクターが繰り広げるエッチの過程と、極めて丁寧に描き出される日々のお料理の献立 の双方に見られる細部へのこだわりは、具体性を持つ陰影の豊かなストーリーの展開と人間関係の緻密な構築を目論むという仮構世界的リアリズム達成のための演出的要請以上に、むしろ枢軸的な主題的必然性を主張するものなのである。崇高性を帯びた英雄的行為と卑近な日常的瑣末性の双方の内実を、予め方向軸を定めたフィクション世界構築の都合のための陳腐な類型に決して陥ることなく探査し尽くし、そこに取得される実存的な真の運命性をとことん可能世界の中で味わい尽くそうという、苛烈な覚悟がその背後に潜んでいることが窺えるからである。
 さらにまた『Fate/stay night』に限らず大半のビジュアルノベルでは、プレイヤーが特定場面で選択肢を選び取るという形でゲームとしてのストーリーを進行させるため、設定上の枢軸となっている前提条件に対して選択可能な結末の展開が複数に分岐し、物語世界の描像は可能態の順列組み合わせのすべてをなぞることができる仕組みとなっている。 こうしたゲーム的可能世界の束としての仮構の全体像は潜在的に想定される事象の各々を網羅的に具現し、結果としてそこに得られる状況の各々の収束が示すそれぞれの事象の発現形に対し考え得る限りの角度からその倫理的本質と実存的意義性を確証することができるという構造になっている。これは時間軸に沿った因果関係の連鎖という線的な事象発現の記述という制約を負った従来の“物語的仮構”が原理的に棄却することを選択することによって成り立っていた“物語”性に対立する、一種背反的な仮構的特質なのである。ゲーム的仮構様式の保持するこのような傾向は、さらに“タイムループ”や“平行宇宙間移動”などの多世界間の貫同一性概念再考察に深く関わる固有の主題を導入することによって存在と現象の“個別性”概念の再検証を要請するものとなり、“個人存在”という概念の新たな位相の発見にも深く関わることになるのである。現在“エロゲー”として受容されている一連の仮構作品の要求する歴史的・文化的評価は、実はこのようなコンテクストの中にこそ確証されるべきものなのである。
 『Fate/stay night』とその続編とされる『Fate/hollow ataraxia』においては、魔法概念を通じて量子的存在論と心霊的宇宙論の合一を図ろうと企図する、既にエロゲー界の伝統ともなった科学的世界観の仮定に満足することがない頑強な全方位的知への願望が、やはり制作者の根幹的な問題意識としてあることが読み取れる。 殊に『Fate/stay night』において特徴的な状況設定としては、過去の自分である主人公衛宮士郎を抹殺することを決心した未来の自分である英霊となったアーチャーを志郎が倒すことにより、生と存在の不毛なループを選び取るという可能性が潜行して示唆されている事実が挙げられる。また続編の『Fate/hollow ataraxia』における、成果の得られない4日間の聖杯戦争を時間軸を捻転させて限りなく繰り返すなどという、ループ構造性とその主観意識的反映である永劫回帰という可能性に対する覚悟への偏執的な程のこだわりも同様で、これらは実存的生のあり方を不断に意識する制作者の精神の類い稀な強靭さを感じさせるものなのである。
 ここに見られるようなゲームの中の仮構的な人物像をゲームプレイヤーとしてその役割を演じながら進行させていくというシステム的機構と、双方向的な選択行為により世界の全体像が多義的に変化するというゲームの枠組み的特質自体をゲームの中に箱庭的に挿入して、一つの仮構世界を成り立たせる存立条件そのものとして採用した入れ子的枠構造の導入の試みは、全方位的反射性に対する鋭敏な意識と共に、アルゴリズムを超えたアルゴリズムをどこまでも探索していこうとするメタ構造性に対する尽きない探求心を主張するものでもあるのだろう。
 だから本編『Fate/stay night』に対置された続編『Fate hollow ataraxia』の関係自体も、単に前作の設定をなぞってストーリー的にフィクション世界を時間軸上に伸展させた後日談的なものとはなっておらず、断片的な疑似体験のパッチワークを繋ぎ合わせて概念空間の背後に隠された基幹設定を論理的に焙り出そうとする、純観念的な情報操作的ゲーム構造となっている。 その結果浮かび上がってくるメタレベルにおける副次的物語像は、むしろ前作の示した切実な意図と壮大な達成の意義性自体を反転させ、その結論として選ばれたものを敢えて転覆したところに、さらなる仮構的真実の考究の主題性を開拓することを企図するものとなっているのである。あたかも、キリストに対してユダに敢えて焦点を当てることによってキリスト教の本質を語ろうとするような、反転的描像の対置を試みる試行を通じて無限遠の思想的焦点を措定しようと試みる思い切った記述の趣向がそこに採用されているのである。そしてこのような捻転的主題性は、実は本編『Fate/stay night』において既に可能態として暗示されていた、潜伏した基底的主題性と看做すべきものでもまたあったのである。『Fate』シリーズのこのような複合的な視点を理解するための両編における重要な通貫的キャラクターが、アヴェスター語で“アンリマユ”と呼ばれるゾロアスター教の悪神である。常に正義の味方であらんと偏執的に欲する主人公衛宮士郎の性格的・存在的危うさが正しく理解されなければ、この思想的内実豊かなエロゲーである伝奇活劇ビジュアルノベルの本質を読み取ることはできないと思われる。常に善人の側に自身を置いておきたい人間達の都合によって作られた哀れな生け贄としての“絶対悪”は、それらの人々の心の身勝手な願望に忠実に従って悪を演じ続けているからである。





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