Archive for September 2006

05 September

英文学科公開講座主題 総論 

4 総論:フィクションとメタ思考
 映画“フック”では、“ピーターとウェンディ”の作者であるジェイムズ・バリや、ピーター・パンという存在のことを初めに物語ったとされる“実在の”ウェンディが登場し、彼等の生きている現実の世界にネバーランドという異世界の住民であるフックの介入が行われるという構図で、仮構世界と現実世界の混淆が果たされ、作品世界におけるあり得ない状況が完成されていた。
 また映画“ネバーランド”でも、一瞬の映像イメージとして、“ピーター・とウェンディ”の製作に大きな影響を与えたダーリング氏のモデルであるデイビーズ夫人が、作品内仮構であるネバーランドに足を踏み入れるシーンが描かれていた。このようなあり得ない筈の状況を示唆する場面が特有の“ファンタスティック”な要素として、これらの仮構作品の位相を決定しているのである。
 しかし原作の「ピーターとウェンディ」においては、作品そのものの基幹的主題としてさらに踏み込んだ形で、フック船長の出自に関する記述の中において、現実世界と心の中の世界であるとされるネバーランドとの次元の断絶を越えた混淆がすでに語られていたのであった。







Hook was not his true name. To reveal who he really was would even at this date set the country in a blaze; but as those who read between the lines must already have guessed, he had been at a famous public school;...

フックというのは彼の本当の名前ではありません。彼の正体を明かすことは、今になってさえも世の中を大変にさわがすことになるでしょう。けれど行間を読んで下さる読者ならもうお気づきのはずのように、彼は有名なパブリック・スクールの出身なのでした。

“ピーターとウェンディ”というお話の記述によれば、海賊フックは自らの意思で現実世界から架空の世界へと転身をとげ、生きながら伝説上の存在へと姿を変えることにより、越え難い筈の次元界面を跳躍することに成功したのである。このお話のもっとも“ファンタスティック”な部分がここにある。実はこのように仮構世界と現実世界との玄妙な連接あるいは交渉があり得るという可能性は、ロマン主義の哲学の重要な原理を形成するものであった。物質と精神、現実と仮構の双方を包含するより公汎なシステム的存在論の構築と、その理解を可能にする媒体である超越的連続体としての意識/存在様相の獲得に対する憧憬こそが、ロマン主義の根底にあった駆動力なのである。そこには“現実”と呼ばれているものに対する激烈な反抗の衝動がある。
 何故ならば“あるがままの確固たる現実”と一般的に是認されているものが、しばしば邪な目的のため統制され、歪められた幻想に過ぎないものであったことは、苛酷な歴史と鋭利な観察が証明してしまっているからだ。国家の存在意義や国民の果たすべき義務などというものが、普遍的な自然の理として認められるならば、これほど目出度いことはない。与えられた既成の世界観を手放しで受け入れることが良くないという決まりは、別に根本原理として定められている訳ではないので、素直に社会や体制の押し付ける“現実”と日常の“生き甲斐”を享受するのも利口な処世術ではある。しかし暗黙のうちに強要されたこれらの擬似“根本的価値”が、その意味を瞬時に失う危険性を内包していることが明白な際には、その“現実”は容易くは受け入れ難いものとなるだろう。自ら心底受け入れたつもりでいた価値観や目的意識が、圧倒的な外圧のために激烈な変革を迫られた時の不幸な衝撃の大きさもまた、歴史が証明するものであり、何よりも現代の日本の精神的荒廃が、その悲惨な影響の苛烈さを物語っていることは論を待たない。与えられた価値観や直感的に得られる印象的判断に満足せず、様々の角度から新規の考察を試み、十分な深度に至るまで検証を加えた末、いかなる可能性とも齟齬を来すことのない普遍性を備えた理論と思われるものを思考する行為が“メタ思考”ということになる。そして本来のメタ思考を存分に展開してみると、そこに得られるものはしばしば常識や通念からはかなりかけ離れた、異質な“あり得ない現実”ともなり得るのである。ファンタシーが提供してくれている現実の常識破壊とさらなる普遍性を備えたメタ・リアリティの模索の可能性は、“フィクション”という概念の哲学的な再評価の必要性に基づくものなのである。この要請が時として大きな意味を持つ理由は、ファンタシーは決して現実ではないが、現実はしばしば幻想であるからだ。

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04 September

英文学科公開講座主題3 「ピーター・パン」

9月16日に開催の英文学科公開講座の主題解説を致します。

ファンタシーと仮構(フィクション)の位相
ー“ピーター・パン”を題材にした3つの映画とメタフィクション

3 “ピーター・パン”
 『ピーター・パン』(2004年、P・J・ホーガン監督)では、一見したところお馴染みのピーター・パンのお話が現実離れしたおとぎ話として、そのまま映画世界の中でなぞられているように見える。不注意な観客の寄稿した記事によれば、「原作に忠実に映画化した作品」などという評価もなされているようである。しかし注意深く原作小説あるいは劇とこの映像表現によって構築された仮構世界の内実を再検討してみると、この“ピーター・パン”と名付けられた映画は、むしろ原作との微妙な偏差を活用してその独特の存在意義を主張する、はなはだ複雑な機構を秘めた仮構作品であることが分かるのである。原作をあるがままに模したものであるのなら、むしろ原作の詳細部分に対する参照や対比は作品鑑賞の興趣を損ねることになる筈である。しかしこの『ピーター・パン』という映画は、さりげなく換骨奪胎された原作とのはなはだ微妙な差異を再確認する作業によって、その作品としての味わいを改めて増幅することができるという、新趣向の作物となっている。
 実はこの映画の本当の主人公はピーターではなく、ウェンディなのだ。ピーターとの交流やフック船長とのやりとりも、少女ウェンディの視点を中心に据えた別種の仮構世界において始めて意味をなす、独特のものとして描かれている。冒頭にあるフック船長を装いながら弟達と海賊ごっこをして戯れるウェンディの姿は、原作には見られなかったものである。この場面に明らかなように、この映画のウェンディは、原作のピーターの保持していた活動的で冒険好きの性向のかなりの部分を肩代わりしているだけでなく、それに伴って原作にあった他者の台詞の多くをも、彼女のものとして与えられているのである。優れた台詞回しや印象的な情景等の原作にあった興味深い詳細部分の魅力をそのまま活用しながら、その台詞の語り手や前後関係等を大胆に改変して再構成したこの映画は、その入念な趣向の全体像を正しく理解するためには、原作に対する深い理解を要求するという点で、実はかなり作り手の身勝手な遊戯行為の上に成り立つ作品であるともいえる。時に高踏的な仮構作品は、仮構として成り立つその枠組みと仮構性の位相に対する批評家的論議そのものを、鑑賞の核心として提示することもある。つまり映画『ピーター・パン』は、仮構作品に対する分析的な批評行為を鑑賞の条件として要求するという独自の要素を備えた、特有のメタフィクションとなっているのである。

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02 September

英文学科公開講座主題2 「ネバーランド」

9月9日に開催の英文学科公開講座の主題解説を致します。

ファンタシーと仮構(フィクション)の位相
ー“ピーター・パン”を題材にした3つの映画とメタフィクション

2 “ネバーランド”
 映画“ネバーランド”(Finding Neverland、2005年、マーク・フォースター監督)に描かれているのは“ピーター・パン”のお話の世界ではなく、この物語を書き上げた劇作家・小説家のジェイムズ・バリと、“ピーター・パン”でお馴染のキャラクターであるピーターやロスト・ボーイズ達のモデルとなった、デイビーズ家の少年達との関わりである。妻との不和という不遇な家庭生活を送る作者と、父親を病気で亡くして満たされない思いを抱く少年達と、そして作者の心を強く捉えた不思議な魅力を備えた彼等の母親をめぐるドラマは、事実に基づくものであることが知られている。この映画は“実話”を独自の視点から再構成したものであり、“ピーター・パン”のお話や映画“フック”のような、あからさまな仮構ではない。
 しかし映像表現に基づく“映画”として提示されたこの作品世界は、これらの物語とは別の種類のもう一つの仮構世界であることは間違いない。作中に描かれているエピソード自体はあくまでも現実的な人々の送る生活と一般的な人々の示すあるがままの情動であり、“ファンタシー”の特質とされる“あり得ない状況”は語られてはいないかのように見える。しかし、病に伏すデイビーズ夫人を喜ばせるために、バリが劇場で見事な成功を収めた“ピーター・パン”を彼女の館の中で上演してみせる場面では、この映画は映像表現ならではの、特有の仮構的状況を形成することになる。劇中劇として展開する「ピーター・パン」のお話の世界と、これを仮構として鑑賞しつつある「ネバーランド」という映画の登場人物の世界との融合が、視覚表現として果たされているからである。このような場面を文部省的に固着した“デイビーズ夫人のイマジネーションの中に映った世界”などとして理解する筋悪な解釈は、あらかじめ除外しておこう。映画のように視覚表現を介して提示される仮構世界では、より即物的に観客の思念にその場面の“実体性”が存在を主張してくる筈だからである。姑息な観念的翻訳を排して目に映る通りの仮構的“事実”の存在をあるがままに認めるならば、現実(リアリティ)という制約の外にある、より広くて深い“メタ・リアリティ”の世界を垣間見ることも可能なのである。“フィクション”という言葉の意義を再検証してみることの必要性はそこにある。限界ある感官と視界を超えて、現実世界と関わりを持つことの決してない別の可能世界の存在や、永遠性の存在である神や無限の実体としての宇宙の属性をも心のうちに思念する、“考える葦”としての人間の意識の力は、既存の観念の束縛を離れた時その潜在的能力をより力強く発揮することだろう。

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01 September

英文学科公開講座主題1 「フック」

9月2日に開催の英文学科公開講座の主題解説を致します。

ファンタシーと仮構(フィクション)の位相
ー“ピーター・パン”を題材にした3つの映画とメタフィクション

1 “フック”
 映画は一つの独立した仮構世界ではありながら、お話のもととなる原作や描かれている状況の示す現実世界との関わり等のいくつかの関連において、様々な微妙な位相を形成することとなる。“現実にはあり得ないとされる出来事の顕現の様が語られる”という定義のもとに理解される“ファンタシー”が映画となった時、現象として起こりえないとされる“不可能性”や現実とは区別される別世界としての“仮構”という要因が、作品世界の構築においてどのような機能を果たし、新たな様相を示すことになっているだろうか。
 “フック”(Hook、1991年、スティーブン・スティルバーグ監督)には、一見したところお馴染みの“ピーター・パン”のお話の後日談と思われる世界が描かれている。現実世界に復帰した後、大人になってネバーランドのことをすべて忘れてしまっていたピーターのもとに、ネバーランドから彼の宿敵キャプテン・フックの挑戦状が届くからである。しかしこの映画は、“ピーター・パン”に描かれていた仮構的事実の以降の有様が描かれた“後日談”とは言い切ることのできないものなのである。何故ならば作中において実際に以下のような台詞が語られているからだ。
 ピーターの子供達に語るウェンディの言葉である。

...that is the same window, and this is the same room where we made up stories about Peter and Neverland and scary old Captain Hook. And do you know, Mr. Barrie--well, Sir James--our neighbor, he loved our stories so much that he wrote them all down in a book.

あれがお話に出てくるあの窓で、この部屋で私達は、ピーターとネバーランドと恐ろしい海賊のフック船長のお話を作り上げたのよ。そしてみんなも知っているように、ご近所に住んでいたバリさん、サー・バリはこのお話をとても気に入って、本に書いて下さったの。

映画“フック”に登場するウェンディおばあさまは、オリジナルの“ピーター・パン”のお話を構想した、元祖のウェンディなのだ。つまり映画“フック” によれば、良く知られたあの“ピーター・パン”のお話は、彼女達の語ったお話しをヒントに作家ジェイムズ・バリが書いた、二次的作品に過ぎないことになる。だからこの映画の世界は、あの“ピーター・パン”のお話しと、その作者であるバリの双方をその内部に含む、より大きな広がりを持った別種の仮構世界なのである。そしてウェンディ達がお話に語り本に書かれたこと以外の、彼等の実際に体験した本当の冒険の存在が、より確かな事実として主張されることともなる。現実世界の中にある仮構作品“ピーター・パン”に対する言及とこの作品世界を内に含むという包含関係から、映画“フック”は確かにフィクションの枠組みを意識したフィクションとして、“メタフィクション”の条件を満足させている。その結果このフィクション世界においては、フックとピーターとネバーランドのいずれもが、単なる仮構としての限界を超えた、より実在性を強く保持した超越的仮構存在となっているのである。現実と仮構を峻厳に分けるべき境界線の存在を曖昧にするための巧みな劇作的操作が施されているからである。

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