Archive for October 2008

19 October

“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理 5




(1)
 何故かこの宇宙には人知の限界を超えた“謎”と呼ばれる現象あるいは存在が多々現出するが、これらの多くが理性の依存する演算アルゴリズムを逸脱する“捩れ”の構造体をとっていることが多いのは、殊の外興味深い事実であると思われる。平面的捩れの構造であるメビウスの輪や立体的捩れの構造であるクラインの壷があるように、その他様々の多次元的捩れの位相幾何学的構造や、意味連関におけるシステム的捩れとして重複的・複合的捩れの構造の存在が発見されることが予想されるだろう。ブラックホールとホワイトホールというそれぞれの対となる現象を特有の捩れ構造で連接すると思われるワームホールや、あるいはフィクションという異次元世界のお話の中のお話や、さらにまた現実とフィクションの間の実は見事に捩れた関係性等、多義的な意味の場の反転的連鎖が、謎と神秘を介して究極の普遍原理の存在を示唆しているかのようでもある。これらの捩れの構造の中でも殊に目新しい例として指摘できるのが、超ひも理論の物理学者ブライアン・グリーン(Brian Greene)の示唆した“ブラックホールの成長の果ての一量子への変転” という、宇宙の存在性発現過程における捻転的循環を主張する理論である。CF. Brian Greene: The Fabric of the Cosmos (2005)

(2)
 物質とエネルギーが、あるいは粒子と波動が、その位相を相互変換して記述され、もしくは重ね合わせの状態として共軛的に観測され得るように、人格や神格、あるいは個別性と普遍的存在もしくは属性とされてきたものもまた、時空と因果関係の制約を排した原初的意味空間において、新たな位相の裡にその姿が理解されることとなるだろう。その位相の各々、あるいは位相を形成する要素の各々が“ペルソナ”という概念を用いて呼ばれ得ることとなろう。

(3)
 エヴェレットの多世界解釈においては、素粒子の確率分布に対応するだけの膨大な順列組み合わせに従った世界像が現出し、これらが分岐した平行宇宙として無数の他世界を形成していくことが想定されていたが、個々の素粒子を“意味素子”に置き換えて同様の観念操作を適用するならば、様々な錯綜した意味の連関が実体化したさらに無数の平行宇宙が、仮構領域にまで及んで実体化することが予想されるだろう。その典型的な例として、『ピーターとウェンディ』において示唆されていた、ピーターとウェンディの意識の交わりの空間に現出した“キスとドングリが意味交換をした意識世界”や、年少のマイケルが夢想した“フラミンゴの上を礁湖の群れが飛んでいるネヴァランドの姿”等の脱臼した意味連関世界の実体化等が指摘し得る。これらは、“ナンセンス”という制約的な概念を完全に排した条件下の意味空間においてのみ顕現可能な、特有の多元的意味の組み合わせの結果なのである。

(4)
 CF. Brian Greene, The Fabric of the Cosmos, pp. 378-412

(5)
 アインシュタインの相対性理論のもたらした、従来の物理学の範疇を超えた哲学的あるいは形而上学的存在論の再考を促す問題性の影響がここにあらわれている。廣松渉の『相対性理論の哲学』においては、この等価原理的法則性の主張が内包する思想的意義性が、以下のような表現を用いて語られていたのであった。

電車の中央から発した光が前後壁に到達したというのは一個同一の事件であり、「相対性原理」からして、この事件は「互いに等速直線運動している二つの座標系のどちらに則してもその形は相等的」な筈である。「相等的」というのは「共変的」の謂いであって、二つの系に則した観測的事実が相貌的には相異なるとしても、一定の仕方で「変換」してみれば直接的な両定式が同一事態の双貌的描写にはかならないことを含意する。
p. 40

ここで“双貌的描写”として等価原理の本質を捉えたところに廣松の指摘の核心がある。何故ならば、アインシュタインが提示したこの物理学上の重大発見とされる一つの法則性が、むしろ本質的には哲学的な洞察としてこそ理解されねばならないものであることが、以下のような論述を通してより明確に提示されているからである。

古典力学にせよ、日常的対象“確知”にせよ、そこでの“変換的”“統一的”把握は謂わば暫定的なものであり、認識論的には、終局的に“絶対的な”あの“真の”“客観的実在”を想定するかたちになっていた。しかるに、相対性理論の場合には、対自的認識相と対他的認識相とを一定の方法で“変換的”“統一的”に把握した所知態が―暫定的な相対知としてではなく―まさしく認識論的な意味次元における“真の”“客観的事実”として定立されるのである。
p. 69

アインシュタインの構想した物理的事象解釈の理論を哲学の場から統括評価する、「“変換的”、“統一的”把握」の所知態を認めるこの視点こそ、ポスト科学の時代にファンタシーとフィクションを再評価すべき視点の基軸の存在を提起するものとなるのである。

(6)
 アーヴィン・ラズロは、古代サンスクリット語のアカシャ(akasha)という概念に着目して、意識体の記憶や想念等の精神の基底をなす要素を、空間や時間等と同等に拡張し得る物理あるいは超物理次元に展開された意味空間次元として捉えることを提唱している。記憶や情念の保存あるいは生成領域を脳内局在論を適用して理解しようと試みた際に認知科学や脳科学が直面した様々な難点を解消する有力な仮説として、脳の保持するホログラフィー的機能に整合的な解釈を与える統合解式を可能とするものであると考えられるのが、“意味”という独立要素を一つの“次元”として捉えたラズロのアカシャ理論である。
Cf. Ervin Laszlo: Science and the Akashic Field: An Integral Theory of Everything, (2004). Inner Traditions

(7)
 賢治の芸術活動の思想的基盤となったこの理念は、ロマン主義の詩人・思想家であるコールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)の基本理念であった「科学と哲学の合体」を踏襲し、量子理論の知見を加えて新たな角度から再構築したものであろう。

(8)
  “光”を対象とした様々な観測と体験という相互作用の集積として、ニュートンが行ったようなプリズム分光と波長による分類作業から得られた光学理論とは全く異なる、“色性”という別界面から捕捉された理論体系が得られる。人間の知性と感覚を通して認識された色や印象などの“クオリア”と呼ばれる概念についての考察がこれである。ニュートンの分光理論に真っ向から対抗してゲーテが唱えた“色彩論”の中に既にその先鋭的な問題性を窺うことができるだろう。このような関心は、精神の主体である個々と世界を統合的な連続体として有機的に結びつけることを可能にする、しばしば世界からの離反と自分自身との不和に苦しむ人間存在にとっては、世界を受け入れ自分自身を恕することを可能にする、積極的な内面的救済行為と繋がる着眼の可能性を示すものであると考えられるのである。
 “ファンタシー”という精神機能は、スペクトル分光による光学理論に対して情感と対応する色彩を問題にする意識であり、質量点としての粒子に全てを還元しようとする統一解式に対して意味と霊性による世界の異なる解法を提示する意識なのである。

(9)
 Cf. “贖いのパラドクス”、『アンチファンタシーというファンタシー』pp. 34-35


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“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理 4


 かくして賢治にとっては、言葉と想いを用いて交響曲的な世界の意味の連鎖に没入し、そして自らの手によって外挿的にその世界を調律する試みが、紛れもなく科学と宗教の共通目的となるべきものとして芸術的生に連接することができていた。このような宇宙的オーケストレーションへの全人格的参入行為こそが、賢治の宣言にある“詩と科学と宗教を一つのものに”統合して観測/記述/創作行為を行う営み、すなわち“心象スケッチ”なのであった。他者の救済のために行う個人としての自己犠牲の行為につきまとうパラドクス(9)と個別的存在性の引きずる因果関係的限界のディレムマを解消し、この誠心からの根源的願望を補完し代替する方途を約束したのが、賢治の出会った新しい科学、相対性理論と量子論理だったのである。だからこそ賢治にとっては、音声のみならず観念と概念と、そして材質や属性すら自在に“オノマトピーア”(擬音)に変換する術、すなわちしばしば魔法の究極の原理とされる“メタモルフォシス”を具現する操作が、確かに存在し得ていたのである。賢治が“科学”という言葉を用いて語った理想郷の夢想を通して垣間見ることのできるものは、20世紀に隆盛を極めることとなった科学的応用技術の成果による物質的豊かさとは全く異なったものだったのである。70年代以降アメリカを舞台として、芸術作品の特異な表現行為として仮構世界の中から現実世界に対する浸透を企図したアクチュアリズ厶の手法が隆盛を極めたが、アクチュアリティの芸術と生の先駆的な実践者が、実は1920年代の日本に既に存在していたのであった。機械論的自然観の束縛を持たない言の葉の生きる国日本の、仮構と現実の融合を果たすばかりではなく、全体性の宇宙と仮象としての個である“わたくし”の融合を夢想する実践的アクチュアリストが宮沢賢治だったのである。そして宮澤賢治にとっての“詩と科学と宗教”の統合体であったものに見事に照応するものとして、現代アメリカのファンタシーの形而上詩人ピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』においては、“魔法”という主題が独特の意味性を担って導入されていたことは、ことさら興味深い事実だと思われるのである。
 『最後のユニコーン』においては、知性と意識を備えた観測者の関与によって始めて現象を収束する宇宙の基幹的原理機構である観測効果と全く同様の機構に基づいて、魔法は人々の願望と心の渇望に照応して生起せしめられていたのであった。日常の感覚を超えた怪物の異形の姿を目にすることを欲する観客達の欲求を核として、神話と伝説の世界の超越的存在達の姿を具現化させて見せていた、ミッドナイト・カーニバルの魔女マミー・フォルチュナの駆使する魔法がそうであった。魔法使いシュメンドリックもまた同様に彼女のこの手法に倣って、伝説の義賊ロビン・フッドに対する森の盗賊達の憧憬の念を軸として、光り輝く永遠性の幻影を招来することに成功したのであった。人々の霊的位相の一様相である願望を掬い採り、その照応物である非在性の幻影を永遠性の投影として現象世界に顕現させることを試みたマミー・フォルチュナとシュメンドリックの魔法の技の施行は、反転的には自らの保持する意図を全面的に放棄することによって宇宙の運行規則に身を委ねることを選択した魔法使いの心霊を反映しもして、その折々のあるべき姿を自在に選んで具現化するのであった。これらの量子的ゆらぎにも似て時としてあらわれまた時として去っていく魔法の力の発現は、しばしば言葉の“意味”と“発声”を媒介として具現化し、またその効果は見事に音楽に位相変換して語られることとなっていたのであった。存在物の階梯とその意味の限りない変容と、そしてその変化の反映する宇宙の根源的な意義性を例証すべく行使されるのが、このお話の中で魔法使いの用いる魔法の技なのであった。だからこそこの辛辣なお伽話の中で、しばしば魔法の力の発効が失敗に終わった際に、破綻した言葉の意味連関の図式が強調して語られているのは、反転的に理性の限界を超えた宇宙の根幹にあるこの峻厳なシステム理論の核心を突いているのである。
 その好例の一つとして挙げられるのが、キャプテン・カリーの手下のみすぼらしい盗賊達を観客として、魔法使いシュメンドリックが無様に奇術/魔法(magic)の技を失敗してしまう場面の記述である。

They applauded his ring and scarves, his ears full of goldfish and aces, with a proper politeness but without wonder. Offering no true magic, he drew no magic back from them; and when a spell failed―as when, promising to turn a duck into a duke for them to rob, he produced a handful of duke cherries―he was clapped just as kindly and vacantly as though he had succeeded. They were a perfect audience.
p. 73

 盗賊達はシュメンドリックの指輪とハンカチを使った手品に歓声をあげた。金魚とトランプが耳から溢れて飛び出す手品をはやし立てたが、それはいかにも儀礼的なもので、本当の感動を得た様子はなかった。本物の魔法を提供することが出来ないものだから、観客の方から魔法を引き出すことも出来ないのだった。そしてシュメンドリックが盗賊達に、アヒル(ダック)を公爵(デューク)に変身させて略奪させてやると約束しておきながら、実際に出してみせたのが一握りのサクランボ(デューク・チェリー)だった時も、この手品の出来が上々であったかのように、優しくはあるが心のこもらない拍手を返されたのであった。彼等は観客としては完璧だった。

 本来ならば根源的な意味性自体に作用する筈の魔法の技があえなく失敗に終わってしまった時には、言葉の音韻の類比のみによる不恰好な換喩に変形して、その効果はみっともなく脱臼した形で具現化してしまうのであった。そしてまた魔法は、かける施術者とかけられる被施術者の双方の精神の感応による、はなはだ微妙な相互作用でもあった。本源的な意味中核と心霊との同調がなされた時にのみ、魔法は顕現してその霊妙な芸術的効果を発揮するのである。だから真の魔法の力の発現を得るに至らない、外殻からの魔法の本質への言及がつたなく行われる際には、記号としての語の外見上の相似にのみ縮退したいびつな形、すなわち破綻した換喩へと誤認されてしまうこととなるのである。これと全く同等の意味と言葉の間にある繊細な関係の魔術的原理を示すもう一つの変化形の例が、未完成の魔法使いであるシュメンドリックが、卓越した魔法の使い手である彼の師のナイコスの振るう真の魔法の力を語ろうとした際に用いられた言葉の選択にも見てとれるのである。

As a child I was apprenticed to the mightiest magician of all, the great Nikos, whom I have spoken of before. But even Nikos, who could turn cats into cattle, snowflakes into snowdrops, and unicorns into men, could not change me into so much as a carnival cardsharp.
p. 119

子供の頃僕は、前にもお話ししたことのある最も卓越した最高の魔法使いナイコスの許で修業をしていました。でも猫(cat)を牛(cattle)に、雪のかけら(snowflake)をスノードロップ(snowdrop)に、そしてユニコーンを人間に変えることさえできるナイコスでさえ、僕をサーカスの客寄せの奇術師以上のものに変えることはできませんでした。

本来の理想的な励起状態においては意味と実質そのものの変成を成し遂げる筈の魔法も、不十分な把握をしか得られない未熟な術者あるいは話者にとっては、事物本来の内実から乖離した不完全な記号に過ぎない言葉の表面的な類比をたどるという形に縮退して収束せざるを得ないのである。これと全く同等の深遠な魔法のシステム機構における脱落した意味性の言語表象の例が、やはり魔法の技については素人のモリー・グルーの口によっても語られることになっていたのであった。

“I know why you did it too. You can’t become mortal yourself until you change her back again. Isn’t that it? You don’t care what happens to her, or to the others, just as long as you become a real magician at last. Isn’t that it? Well, you’ll never be a real magician, even if you change the Bull into a bullfrog, because it’s still just a trick when you do it. You don’t care about anything but magic, and what kind of magician is that?
p. 186

「そして私は、どうしてあんたがリア王子にそうするように仕向けたのか分かる。あんたはアマルシア姫をもう一度ユニコーンの姿に戻すまでは、不死の呪いから逃れることはできないんだ。そうじゃないのかい?あんたはアマルシア姫がどんな目に遭おうが知った事じゃないし、他の誰のことだって同じなんだ。自分が本物の魔法使いになれさえすれば、それでいいんだ。そうでしょ。でもね、あんたは決して本物の魔法使いなんかにはなれはしないよ。あんたがレッド・ブルをウシガエル(ブルフロッグ)に変身させようがね。あんたに出来るのはごまかしの技だけさ。あんたには魔法のこと以外はどうだっていいんだ。でもそんな魔法使いが一体何だっていうんだろうね。」

いかにもグロテスクな未熟な言葉の類比は、低質の駄洒落以上の効果をあげることはない。しかしこれらの意味の飛躍が真の魔法の発現として成功に導かれた際には、その結果はしばしば現象世界の限界を跳躍する“非在性の比喩”として結実し、見事に意味の変成を成し遂げると共に、現象性を脱却して即物的意味を消却した、永遠性の一様相である音楽を暗示する言葉に変換して語られることとなっているのである。その時こそが言葉を通じて啓示的な“謎”の成立が得られる奇跡的な一瞬となる。


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“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理 3


 つまり、極限の真実追求を旨とする科学者/思想家にとっては、意味空間の中で多元的に分岐して個々の内実を主張し得る“函数”としての概念/現象の全体像を正しく把握して論考に組み入れるためには、“函数に関する函数”としてのメタ数理理論化の手順が不可欠であり、常に構想し得る限りの種々の座標界面を構築し得る基体となるべき、従来の理性の及ぶ範囲であった限界ある次元を跳躍した、多元空間/多元概念座標における関係性の函数的表現を柔軟に行う不断の行為と思索こそが、自身の生の哲学として切実に模索されねばならなかったのである。
 永遠的真実の探求を企図する精神においては、カオスの内部に押し込められた、信仰の力によってかろうじて神々の支配の領域として確保された、閉じられた城塞のような孤絶したコスモスを生きることに満足するのではなく、むしろカオスを基盤に捩れと捻りを軸に伸展する全方位的存在性の展開を許容する閉塞を知らない世界構築理論が新たに構想され、考え得る限りの全てを含む本来の意味での普遍性の宇宙に意識を開放せねばならないこととなる。その結果例えば、歴史哲学を実存哲学へと変換し、あるいは楽曲を絵画へと翻訳することにより、乖離した次元界面における潜伏した同一性や共通性もしくは対照性を目ざとく読み取ることによって、現象世界における意味の断絶や矛盾を克服することが始めて可能となるのである。意味の関係性を切り離した質点あるいは波動として量化された数値のみに着目して、力学あるいは波動関数としての数式的構造性を抽出することばかりで終わりとするのではなく、むしろ意識体の保持する相関した主観的意味単位である感覚性にこそ焦点を当てて、それらの相互変換作用を含めた網羅的な意味の関係性を記述することを企図した場合には、時として視覚が聴覚に、あるいはまた触覚等の別種の感覚に置き換えられて語られ得るように、“クオリア”(8)の相互変換性がむしろ意図的に開拓され、記述されねばならないこととなるからである。先鋭的なロマン派の詩人エドガー・アラン・ポーがその詩作の上で印象的に行ってみせたような視覚と聴覚等の感覚の交錯の記述は、単なる斬新な表現技法としてのレトリックの模索の範疇に止まらず、全体性の宇宙の原理的な記述と普遍相における意味の把握にこそ係わる、思想上の枢要な基幹原理を示すものとなっていたのである。こうして全ての不和と矛盾と差異を言わば意味の函数化を介して調和させることのできるアルゴリズムを、数学的演算処理のみならず、その処方そのものに適用することによって、実際の現象物体(マテリア)自身の奇跡的な変身(メタモルフォシス)と、そればかりでなくプレローマ的場の根幹的意味性そのものの変成を具現化する手立てが発見され得るのである。そのような意味で人格や個別性の裏面に横たわる同一性や対称性が再発見された時、改めて『春と修羅』の序詩の「すべてがわたくしの中のみんなであるように/みんなのおのおののなかのすべてですから」の一節が示唆する、量子論理的/仏教理念的な、宇宙理解/世界救済の可能性も垣間見得てくることだろう。
 六道の発想の根幹にあったような、“世界の中の私”と“私の中の世界”という反転的描像が共軛的に成り立ち得るような精神界面においてこそ、真に創造的な仮構の記述は成立するのである。このような意味で常に切実な思惟を巡らせ、見て語り全ての事物に霊的に関与し、一つの個人の生を深く生きることによって全ての生と意味を意義づけ、大乗の教えを具現化して他者あるいは“みんな”の救済をも実際に企てることが可能にもなるのである。時・空・精神連続体の全体性を構想する場合に理解や把握の基礎単位を形成すべき“意味”とは、物質主義的宇宙観を前提としていた科学が仮定していたような、属性や特質として質量や現象の中に帰属するものとして仮定された、量化して読み取られるべき仮象情報としてあるのでは決してなかった。宇宙の根源的実質単位として存在すべき“意味”とは、“質量”や“エネルギー”や“波動”や“場”を生成する原形質として本源的に全てに先立って存在すると同時に、むしろこれらの現象を観測し記述する意識の主体とそれらの行為自身との相互作用という描像自身と等価的な定義を保持するものとして、その他のあらゆる個々と全体との関係性を常に意義性の階梯と機縁を増幅しながらさらに新たな固有の意味としてその流動的な内実を賦与されつつ、総合的に展開していくべき基礎概念だったのである。記述者からは独立して厳然としてある客観的な事象の存在という仮定と、機械論的過程に従った模擬実験による科学的真実の普遍的物理法則としての確証という、“ノヴェル”が担っていた幻想により損なわれてしまった仮構のエネルギーを再び解放することに成功したのが、“心象スケッチ”と宮澤賢治が名付けた、文学的表現技法の枠を超えた芸術的生のあり方であった。
 “意味”の中に見いだされるべき、これによって全ての概念が等価的に変換されるべき“意味を形成する意味”とは、常に能動的にあるいは恣意的に構築され、個々の意識の主体によって意図的に賦与され得るものでもあったからこそ、現象性の中の些末な事象への任意的関与とその恣意的記述そのものが、賢治にとっては意味の複合的連鎖として紛れも無く世界の総体としての真言と共振し、人にとっての“真実の言葉”となり得ていた訳なのであった。この優れて祭礼的/祝祭的/祈祷的実例を、『春と修羅』に収録された他のいくつもの心象スケッチの中に豊富に見いだすことができるのである。そのうちでも最も特徴的な成功例の一つとして挙げ得る作品が、「アンネリダタンツェーリン」であろう。

蠕虫舞手(アンネリダタンツエーリン)

(えゝ 水ゾルですよ
  おぼろな寒天(アガア)の液ですよ)
日は黄金(きん)の薔薇
赤いちひさな蠕虫(ぜんちゆう)が
水とひかりをからだにまとひ
ひとりでをどりをやつてゐる
(えゝ 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア) ことにもアラベスクの飾り文字)
羽むしの死骸
いちゐのかれ葉
真珠の泡に
ちぎれたこけの花軸など
 (ナチラナトラのひいさまは
  いまみづ底のみかげのうへに
  黄いろなかげとおふたりで
  せつかくをどつてゐられます
  いゝえ けれども すぐでせう
  まもなく浮いておいででせう)
赤い蠕虫舞手(アンネリダタンツエーリン)は
とがつた二つの耳をもち
燐光珊瑚の環節に
正しく飾る真珠のぼたん
くるりくるりと廻つてゐます
(えゝ 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア) ことにもアラベスクの飾り文字)
背中きらきら燦(かがや)いて
ちからいつぱいまはりはするが
真珠もじつはまがひもの
ガラスどころか空気だま
 (いゝえ それでも
  エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字)
水晶体や鞏膜(きようまく)の
オペラグラスにのぞかれて
をどつてゐるといはれても
真珠の泡を苦にするのなら
おまへもさつぱりらくぢやない
   それに日が雲に入つたし
   わたしは石に座つてしびれが切れたし
   水底の黒い木片は毛虫か海鼠(なまこ)のやうだしさ
   それに第一おまへのかたちは見えないし
   ほんとに溶けてしまつたのやら
それともみんなはじめから
おぼろに青い夢だやら
 (いゝえ あすこにおいでです おいでです
  ひいさま いらつしやいます
  8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア) ことにもアラベスクの飾り文字)
ふん 水はおぼろで
ひかりは惑ひ
虫は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
    ことにもアラベスクの飾り文字かい
    ハツハツハ
  (はい まつたくそれにちがひません
    エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
    ことにもアラベスクの飾り文字)

『春と修羅』に収められたこの心象スケッチの短詩においては、詩を詠む作者の姿自身が反転的に作品の中に描き込まれている。その作者は手水鉢の底に沈んでうごめいている蠕虫という、現象世界の具現する小さな一側面に目を留め、これを観察・記録するという体を装いながら、実は神話と科学と音楽を綯い交ぜにしたとりとめのない夢想を心中に展開しているのである。一見したところ伝統的な “叙情詩”と呼ばれてきたものと同等の道具立てに基づいた、小さな内面世界を描いた作品空間がここにはある。しかし“心象スケッチ”としてのこの作品の成立基盤は、一般の叙情詩の類型に従って、作者個人の孤独や哀れの想い等を歌った、感情の吐露や想念の告白として成立するものとは、実は全く異なるところに立脚するものなのである。


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“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理 2


 仮構と科学、魔法と現実のそれぞれを統括して理解すべくこれまでに論じてきたような存在論的仮説に実際に従って、見事にその生を全うした実存と芸術の実践者が、既に日本には存在していたのであった。本書におけるファンタシーと量子力学との相関に関する論考と最も深い関連を持った人物として、第一に挙げるべきだと思われるのは宮澤賢治の名前であろう。“詩と科学と宗教を一つのものにする”という霊的スローガンを掲げて“心象スケッチ”という生の芸術活動を実践した賢治の理論的拠り所が、アインシュタインの提示した相対性理論にあったことは既に良く知られた事実である。例えば賢治の代表作と言えるであろう、精神と霊的知覚の極限を模索した『銀河鉄道の夜』の舞台を提供する進行中の鉄道車両という印象的なシチュエーションが、等速直進運動を行いつつある慣性系における時間・空間の位相を再考察するためにアインシュタインの採用した思考実験の機構に触発されたものであることに間違いはないと思われる。そればかりでなく、相対性理論の提示した素粒子の存在論的解釈とその哲学的影響を巡って1920年代に切実な関心を持って論議されつつあった、量子理論の開拓した波動論あるいは確率論的解釈法についても、賢治が“心象スケッチ”において敏感に同時代的反映を示したことが分かっている。1924年9月17日の作である『春と修羅』第2集に所収の作品番号304、「落葉松の方陣は」などに、その顕著な実例を見ることができる。量子論理における実在の存在論的解釈を巡る、ボーアやハイゼンベルグの論議の影響を直接反映していることが確実である例として該当すると思われる箇所を、下に引用してみよう。

半透明な緑の蜘蛛が
森いっぱいにミクロトームを装置して
虫のくるのを待ってゐる
にもかゝはらず虫はどんどん飛んでゐる
あのありふれた百が単位の羽虫の輩が
みんな小さな弧光燈(アークライト)といふやうに
さかさになったり斜めになったり
自由自在に一生けんめい飛んでゐる
それもああまで本気に飛べば
公算論のいかものなどは
もう誰にしろ持ち出せない
むしろ情に富むものは
一ぴきごとに伝記を書くといふかもしれん

 宮澤賢治という個人の存在の反転的写像である、彼を取り巻く風景に対する主観的描写の中に採用された“公算論”(probability)という語が、物質粒子あるいは一個の生命体すらも“確率関数”として記述することを主張する、古典力学における運動方程式に代替するものとして量子力学が提示した存在性記述理論を示唆するものである。アインシュタインの提示した相対性理論の主要な課題点である時空連続体としての世界認識と慣性系における作用伝達の新解釈についてばかりでなく、素粒子の振る舞いについての存在論的考察としてそこから必然的に展開した実在と記述の相関についての様々な議論を、賢治は量子論理生成期の同時代人として重大な関心を持って把握していたのだった。そしてこの従来の決定論的現象解釈に取って代わるべき新機軸の実在記述理論の誕生が、結局は賢治に対しては揺るぎない信仰の道と情熱的な科学の探求の道の双方を包含する統合的世界解釈として、生の哲学の実践の道への接点を提供することになったのである。それは、『春と修羅』の序詩として提示された以下の創作理念の宣言に、あまりにも直裁に語られるものとなっている。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

     大正十三年一月廿日   宮澤賢治

賢治がここで「わたくし」と名乗る自らを“存在”とは呼ばず“現象”と定義づけ、“透明な幽霊”すなわち心霊あるいはペルソナの“複合体”であると認識するのは、相対性理論の成し遂げた実在解釈の方法論の革変に見事に対応している。おそらく賢治にあっては、全体性の示す一様相を意味単子として構想するライプニッツのモナド論の発想は、相対性理論の示す宇宙観に対する考察を通して受け入れられたものであろう。そしてアインシュタインの提示した時間と空間の連続体としての世界像に対しては、この序詩では“時空”という言葉ばかりでなく、さらに“第四次延長”という言葉をも用いてその骨子が反映されている。“因果の時空的制約”という言葉にあるように、事象と存在の記述とその意識の主体の認識において示される様々な様相の等価原理的な相異なった具現化という基本認識そのものが、相対性の原理の実存的反映としてこの序詩の全体に展開する基幹理念となっている訳だが、これらは仏教思想的関連から“六道”の発想を暗示させもする“人や銀河や修羅や海胆”といういかにも賢治らしい大胆な字句を用いて、また集約的に語られ直すことになっている。しかし賢治の創作論において最も枢要な相対性理論と量子力学の存在解釈を反映した思想的核心が述べられていると思われる部分は、実は“すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから”という一節であろう。この言明に示唆される全と個の反転的合一を前提とするシステム理論的存在解釈こそが、近代西洋思想が結局は帰着してしまった、存在性における意味の喪失と生の根本原理の破綻を救済するための、重要な契機を提供するものだからである。


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“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理


 通例“ファンタシー”という言葉で呼ばれている文学ジャンルの勃興が、歴史的位相においては、世界認識のあり方におけるニュートン力学的一元化モデルに対する思想的反発を契機に生成した、いわゆる“反啓蒙主義”(anti-enlightenment tradition)の影響下に19世紀から20世紀初頭にかけて展開した、近代ヨーロッパに特有の思想的風潮を反映した文化現象の具現化の一つであったことに間違いはないだろう。だから文化的位相においては、西洋文明が近代において経験した科学思想的世界観の劇的な変転を直截に反映した、心理的一局相として同定し得るものでもある。しかし、その内奥にある潜在的可能性としての内在的本性においては、むしろ時代感覚を越えた人類の文化現象における普遍的な思考と、さらに宇宙内部にある本源的な意味性自体のシステム理論的構造にこそむしろ大きく関わっているものと考えられるのである。それはこの独特の仮構世界記述様式が、微視的な人間的知覚と巨視的な永遠的真実と仮定されるものの間に現出する特有の偏差を浮き彫りにすることにより、宇宙の俯瞰的な展望から得られる世界像の固有の一側面を強く示唆しているものであると判断されるからだ。
 様々な様相を取って顕現したその偏差の構造的捩れ(1)の具体的な類例の一つを、現代に至って我々が経験した特徴的な出来事の中から求めてみることにするならば、光子対の偏光状態の検出実験という事例から導出されることとなった“ベルの定理”を挙げることができるだろう。事象の観測行為が及ぼす物理状態の確定とその局所的因果関係の範囲を超えた作用伝達は、経験則から得られた従来の“科学”の示唆する法則性を逸脱する、新規の実在記述機構の存在を示唆するものであった。そしてこの発見が提示するに至った実在宇宙の保持する根源的な原理機構と思われるものの意外な姿は、全体性の構造性に由来する事象の生成と様態発現における作用の“非局所性”を主張する一方、そこから結果的に導き出される時・空・精神統一理論構築のための有力な仮説の一つとして、「カオス的な“意味の海”としてたゆたう場としての原存在の基盤から、意識が能動的に焦点を与えることによって引き出される結果として生起する“存在”あるいは“現象”」という事象発現メカニズムに基づく、新たな宇宙レベルでの世界に対する総括的意味性賦与の可能性を示唆するものでもあったのである。つまり、意識の主体による観測/知覚/記述等の行為が、生成/創出/理解等の主体的関与を行うことによって始めて、存在/現象/属性等の従来客観的事象性とされてきたものを現出せしめるという一般公式を導入することにより、あらゆる概念要素を相補的な行列的重ね合わせとして再変換し、相異なる範疇に属する概念の全てを仮定された単一の基礎概念の相互作用的表象として理解/記述することさえもが可能とされることとなったのである。当然のことながらそこには、新たな統合的世界解釈を進めることを可能にするさらなる場の概念の拡張の模索の必要性が示唆されねばならないこととなる。だからこそ、例えばルソー以来のロマン主義の延長線上にあると思われるこの仮説の主張に従うことにより、しばしばファンタシー世界の欠かすことのできない構成要素となっている神霊や魔術等の及ぼす効果とされるいわゆる超常現象や、あるいは個別の意識体のうちに潜む予知や精神感応等のパラサイコロジーという言葉で理解されている諸現象も、意味構築を行う概念の基礎単位として機能する仮想粒子(ドーキンスの“meme”=模倣子に倣うならば、“seme”=意味素子とでも呼ぶことができよう)がゆらぎのなかで生成消滅を繰り返す相互作用という形で異次元の情報の海から引き出されてくる次元的捩れの位相の各々として、光や重力の場合と同様に物理学的あるいは形而上学的に理解することが可能ともされることとなるのだ。かつて古代ギリシアで、意味の複合体として存在するコスモスとしての世界を構築する基幹的意味単位である各々の抽象概念が、それぞれ神格としての別の位相を保持していなければならなかったように、自然(nature)の背後には全体性の意味の階梯と関係性を保障する超自然的(supernatural)作用因がシステム理論的に必要とされることになるのである。そして存在の基底にあるとされる原理的意味性の確証という、ここに得られた存在論/認識論的解釈を我々のアンチ・ファンタシーに関する論考に適用するならば、意味の複合連鎖として最大限の信仰を反映した懐疑を描いた『ピーターとウェンディ』(Peter and Wendy, 1911)という仮構の発現に対して、『最後のユニコーン』(The Last Unicorn, 1968 )では最大限の懐疑を反映した一つの信仰の形が描かれている仮構が現出しているという潜在的意味の反転的連鎖が成立しており、これら双方が極めて緊密な相補的同位体の相を成しているという仮構世界の中のシステム構造性を反映した、ある種のペルソナ(3)の反転相をも具現しているという、新たな属性同定上の函数的意味単位の存在もまた浮上してくることと思われる。例えばツヴェタン・トドロフの与えたファンタシー(the fantastic)の定義である“科学的世界観を保持する意識の主体がその理解の範囲を超えた現象を眼前にした際に覚える精神の揺らぎ”を反映する仮構が『ピーターとウェンディ』においてアイロニカルな反転現象を生起せしめているとするならば、トドロフが対照的な定義を与えながらも敢えて掘り下げた論議の対象とすることの無かったとされる“マーベラス”(the marvelous)においてアイロニカルな反転現象が生起したことを確証するための事例に適合する模範的実例として、『最後のユニコーン』の保持する位相を割り出すことも出来そうだからである。そこでは現象として存在する意味の複合体である現実と、現象としては存在していない意味の複合体である仮構と、さらに現象として決して存在し得ない意味の複合単位であるまた別種の不可能世界たる仮構のそれぞれが、相補的な関係性を示して相互作用を行いつつある可能態の意味連関の場が、4次元時空の場をさらに拡張して新たに想定されることとなるのだ
 そのような思考界面においては、量子力学と共に20世紀初頭に鮮烈に展開した新規の集合論と、跳躍的に拡張した新傾向の論理学の磁場の及ぼしたシステム理論的発想が、その直接の影響のもとに『ピーターとウェンディ』や『最後のユニコーン』のような脱伝統論理的に極めて高度な観念操作を反映した形而上的仮構を産み出したと理解されなければならない理由は全く認められない。むしろ、意味の破壊作用をもたらすパラドクスも、仮構と現実と自然と超自然の従来の定義を抜本的に覆す新理念として登場したアクチュアリズ厶も、そしてファンタシーとリアリズムの双方を解体して包括する秘められた潜在力を示唆するアンチ・ファンタシーという指標自体も、それぞれが“仮構”という多義的な基質の反映する豊かな内実の表層に浮上した、共軛的位相の各々に過ぎないものであったことを過たずに理解しておきさえすればよいことになるのである。こうして“仮構”が本来有していた筈の多義的な反射的指示機能と、“現実”という名で従来理解されてきた本源的には限界ある存在論的仮説に対する関係性において、“アクチュアリティ”という発想との間に構築することが可能な微妙な相関性あるいは対称性の一部を、改めて効果的に記述する視点が実際に提示されることとなった。つまり、「現実的な存在ではない、想像によって捏造された疑似存在」という一般的定義の許に認識されている“仮構”という言葉で呼ばれてきた、論理的にははなはだ意味措定の困難な曖昧な概念に対応すべき相関対象を、別次元の観念空間上に見事に投影することに大きく寄与したのが、20世紀初頭以降急速に発展したパラドクスの論理学やアクチュアリズ厶の文学ジャンル等々にその成果が代表される、これらの相対性理論と量子力学的発想に裏打ちされた柔軟でしかも堅固なシステム理論だったのである。
 このように、一方で実在論の角度から掘り下げられた量子理論と両輪の関係をなすものとして、もう一方では現象論の角度から掘り下げられた目覚ましい論理学の革新とシステム理論の拡充があったお蔭で、仮構の保持するいわばプレローマ的特質を再検証する体勢が改めて整ってきたのである。しかしその現実・仮構連続体の探索を企図する傾向の端緒もまた、実際には歴史を遠く遡るものであった筈であるし、相対性理論誕生の直前の19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパの文化状況を射程に入れるならば、神智学(theosophy)の模索した霊性理論や数理論理学者ルイス・キャロルの奇想的著作等にも、既に明らかに見て取ることができるものなのだ。妖精や精霊などの概念が宇宙論と心理学に深く関わる仮構空間における相対物として、これらの形而上的思念の直接の産物であったことは既によく知られている事実である。例えばキャロルの『シルヴィーとブルーノ』(Sylvie and Bruno, 1889)において描かれた、個人の意識構造内部という精神の界面において発現する妖精界と人間界という二つの物理空間次元の重ねあわせを記述することを目論む発想は、数理論理学者らしい著者キャロルの思考の純粋に思弁的な特性を反映しているのみならず、ファンタシー文学を生み出す思想的土壌となったロマン主義思想の根幹にある、形而下的(ニュートン力学的)偏心性に激烈に反撥する先鋭な形而上学指向的傾向を如実に示すものなのでもあった。明らかに量子理論とアクチュアリズムの誕生以前に、知性体の想念の及ぼす現象世界への霊的影響と意識の保持する特有の具現化作用は、宇宙解式の包括的システム理論としての意義性を明確に自覚して思考過程の中に導入されていた。そして一切の現象世界的逡巡を放棄してこのような極限的抽象思考に全てを委ねるならば、古典力学の完成以降にこれまでに理性と科学によって確証されてきたような観測と知覚によってのみならず、思念や情念を通じて非局所的に全体性の相互作用を行っている、さらなる未知の意味界面の存在が、むしろ“仮構”という包括的意味性の場の中にこそ新たに開拓されねばならないことになるのである。さらにまた、精神作用の範疇を越えた別種の観念空間においても同等の意味構築の可能性が示唆されることが認められることにより、妄想と奇想の産物である明らかな矛盾を含んだ荒唐無稽な仮構の占める一つの可能的実在世界としての意義性さえもが、その原理的不能性という特質においてこそ改めて評価されねばならなくもなるに違いない。(2)
 『最後のユニコーン』の終局近くの場面で、遂に宇宙の極限の真実を見極める力を有する本物の魔法使いとなったシュメンドリックが語る以下の科白は、このような意味で彼が遂に存在と意識と非存在と仮構の間にある、貫事象平面的真実の超論理的関連を把握し得たことを示しているのである。ハガード王の後を継いで不毛の王国を統べる王となったリアに、再び永遠性の存在属性を回復したユニコーンの記憶と想念と思われるものについて語る言葉である。

As for you and your heart and the things you said and didn’t say, she will remember them all when men are fairy tales in books written by rabbits.
p. 207

陛下と陛下の心と陛下のおっしゃったこと、あるいはおっしゃらなかったことについては、ユニコーンはそのすべてを決して忘れることはありますまい。人間達の世界が兎達によって書かれたお伽話となった時でさえも。

ここで語られているような永遠性の存在の思念によって把握された真実の位相である函数的関係性においては、事象として発現したことと事実たり得なかった潜在的可能性の差異が全く認められないこととなる。同様に例えば、現実─仮構─不可能態統合次元においては、“人格の同等性”あるいは“存在の個別性”さえもが、致死性の人間知性によって信じられていたものとは全く異なった図式において語られなければならないことになるのは言うまでも無い。これと同等の彼岸的思考による、意識の主体である“私”性の示し得る位相の記述の興味深い一つの例が、やはり思弁的な霊性の探求者であったジョージ・マクドナルドのファンタシー『ファンタステス』(Phantastes, 1858)において既に語られていたのであった。複数の仮構領域にまで通底して主張し得る貫世界的“私”性の存立可能性の提示が、以下のパッセージにおいて鮮烈になされているからである。全てが不可分である無意識の魂の領域であるフェアリーランドに赴いた主人公アノドスによって、知と意識と経験の統合体である“フェアリー・パレス”の図書館で発見された、霊性の位相発現の一側面の凝縮的投影である“フェアリー・ブック”に記されていた仮構のペルソナ的内実を語る一節である。

One story I will try to reproduce. But, alas! it is like trying to reconstruct a forest out of broken branches and withered leaves. In the fairy book, everything was just as it should be, though whether in words or something else, I cannot tell. It glowed and flashed the thoughts upon the soul, with such a power that the medium disappeared from the consciousness, and it was occupied only with the things themselves. My representation of it must resemble a translation from a rich and powerful language, capable of embodying the thoughts of a splendidly developed people, into the meagre and half-articulate speech of a savage tribe. Of course, while I read it, I was Cosmo, and his history was mine. Yet, all the time, I seemed to have a kind of double consciousness, and the story a double meaning. Sometimes it seemed only to represent a simple story of ordinary life, perhaps almost of universal life; wherein two souls, loving each other and longing to come nearer, do, after all, but behold each other as in a glass darkly.

お話の一つをここに再現してみることにしよう。けれども、残念ながら、それを行うことは、折り取られた枝と枯れ葉をもとにして、森全体を復元しようと試みるようなものだという気がする。フェアリー・ブックの中では、それがどのようにしてかは言葉を用いても他の手段を用いてもうまく語ることはできないが、すべてがあるべき姿で描きだされていた。その話は、どのようにしてなされたかを意識することができない程に、そして描かれたもの以外のことを考えることができない程に力強く、魂の上に想いを閃かせたのである。ここで私が語るその話の内容は、豊かで力強い素晴らしい知性を備えた人々の思考を実体化させることのできる言語から、未開の人々のたどたどしい粗末な言語に翻訳を行ったようなものに近い。勿論私がこの話を読み進めている時は、私は主人公のコスモであり、彼の経験は私のものであった。けれども読みつつあるその間、私の意識は二重のものとなり、その話は二重の意味を備えているように思えたのであった。時にはこの話はありふれた生活のありふれた出来事を語っているように思えた。そこでは二つの魂が互いに愛の思いを抱き、寄り添いたいと願いながら、結局はほの暗い鏡の中でお互いの姿を見つめているだけなのだった。


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